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「成道の日に」

平成23年12月1日

 釈尊はご降誕のとき「天上天下唯我独尊(天の上にも下にも我ひとり尊し)三界皆苦我当安之(過去・現在・未来と生死輪廻する苦悩から救われる教えを我こそが説き導こう)」と宣言された。そして、35歳のときインド・ブッダガヤの菩提樹の下で、6年間の難行苦行の末に悟りを開き、佛と成られた。その成道の日が12月8日。全国各所で成道会(じょうどうえ)という法要が勤められる。

 昨年12月、念願かなって京都嵯峨・釈迦堂清凉寺様にお参りさせていただいた。8日午後からの成道会に先駆け、8日昼までの3日間で3千回の礼拝を行じ、自らの罪障を懺悔(さんげ)する三千佛名礼拝会に入行するためである。
 ご本尊は釈尊37歳のときのお姿を生き写しに刻まれたもので、インド→中国→日本と渡来したので「三国伝来生身(しょうしん)の釈迦如来像」といわれ、千年の昔から「生きてましますお釈迦様」として、広く一般の庶民にいたるまで多くの信仰を集めてきた。
 保元元(1156)年=法然上人24歳の春、師匠の許しを得て比叡山を下り、最初に立ち寄られ7日間参籠されたことでも知られる。その同じお釈迦様にひれ伏し念佛を称え礼拝をするうちに、時空を超えて法然上人に接するように思われてありがたかった。

 比叡山にも釈迦堂はあるが、法然上人にはこの嵯峨釈迦堂でなければならなかった。9歳の時死に別れた父時国公の遺言であり、母秦氏と生き別れてまでも探し求め続けてきた「すべてのものが救われる佛教」とは何なのか?7日昼夜にわたり「生きてましますお釈迦様」の御前にぬかづき、直接におたずねし、み教えを請うお姿がしのばれる。
 当時はたび重なる戦乱の世。加えて天災飢饉に遭った民衆は飢餓にあえぎ、次々に疫病に斃れていった。たとえ生き延びても、その分だけ苦悩と疲弊にさいなまれるばかりの日々。辻のそこここに屍の山。また、佛教の教えがすたれ、修行を成し遂げ悟りを得るものもなく、教法のみが残るとされる「末法の世」を迎えすでに百年を過ぎていた。

 生きてこの世も地獄なら、死んでこの先あの世も地獄行き必定という、来世の救済も望めない絶望の淵で、「これで必ず救われる!」という確証も無いままに祈り続ける数多の老若男女。その姿を目の当たりにした法然上人は、その後19年もの艱難辛苦の求道の歳月をおくられたのである。釈尊ご一代のみ教えを書き留めたすべての経典=一切経−その中にあるはずの「すべてのものが救われる佛教」を探し求めて。
 そして、「生涯偏にこの一師に依る」と仰がれた善導大師のご著書に導かれ、「阿弥陀」と名乗る佛様が「南無阿弥陀佛と我が名を称え呼ぶものは、自ら迎えに出向き必ず救う」というお誓い(本願)を完成し、「苦しみ悩みの微塵も無い西方極楽浄土に迎え、立派な佛となるまで導こう」と、悠久の昔より準備万端待ちうけていらっしゃることを、「すべてのものが救われる佛教」として見出されたのであった。

 釈尊がこの世にお出ましになった真の目的が、この阿弥陀佛が本願に誓われた念佛のみ教えを説くためだったことから「釈尊出世の本懐のみ教え」ともいわれるのである。

「釈迦は往け 弥陀は来たれの中に我 押され引かれて参る極楽」
の歌にあるように、私たちは、
 お釈迦様の「阿弥陀佛の本願にすがり念佛申し極楽に往け」とのお薦め、
 阿弥陀様の「お釈迦様の仰せ通りに我が名を呼べば必ず救う」というお約束=二佛の仰せを頼もしく承って極楽往生を願い、生涯にわたり念佛申していくのみである。

 今年の12月8日は、太平洋戦争が開戦した日からちょうど70年目にあたる。個人の欲望と怒りと愚かさが、社会や国家の中に組織化され肥大した先に、集団的暴力や略奪ともいうべき戦争の惨禍が繰り返されてきたことにもおもいをいたしたい。その際、この尊い念佛のみ教えもねじ曲げられ戦争に用いられた歴史の反省から、自ら正しく受けとめ、人に正しく伝えていくことの精進をあらためて自誓する日としたい。

南無阿弥陀佛


宮城教区浄土宗青年会 大念寺中 太布基雄

「法然上人のご生涯」については こちら もご参照ください





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