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法然上人@ 〜ご誕生、そして別れ〜

 法然上人は、長承2(1133)年4月7日、現在誕生寺(法然上人二十五霊場第1番)のある場所(美作国久米南条稲岡荘)でお生まれになりました。勢至丸(せいしまる)と名付けられ、武士である父の漆間時国(うるまのときくに)公、母秦氏(はたうじ)の元健やかに成長されます。

 勢至丸様が9歳の時、父である時国公は、当時敵対していた勢力に夜襲を受け、勢至丸様の目前で息を引き取られます。武家の習いによるならば、勢至丸様に課せられることは仇討ちです。しかし死の直前時国公は、「敵を恨んではいけない」と言い含められたのです。なぜなら恨みは恨みを呼び、憎しみは憎しみしか呼びません。時国公は、いついつまでも苦悩の連鎖を断つことが出来ない事を見通されていたのです。たった一人の息子までもが、苦悩にあふれる世界に翻弄され続けることを制せられ、
 「私の菩提を弔い、そなた自身も迷い苦しみを離れ、救われる道を求めて行きなさい」と遺言され、悲しみの連鎖から抜け出す法を求めることを勢至丸様に託されたのでした。

 勢至丸様は、目前で父を殺された苦悩を心の内に終い込み、遺言を真摯に受け止めて、出家の道を求められます。叔父である観覚得業(かんがくとくごう)が住していた菩提寺に預けられました。観覚得業は勢至丸様の類まれな才能に驚かれ、佛教の最高峰の一つであるに比叡山へ登ることを勧められます。
 その時母である秦氏は、
「形見とて はかなき親の とどめてし この別れさへ またいかにせん」
(非業の死をとげた夫時国の忘れ形見である勢至丸までも、生き別れて行かなければならないとは、言葉で言い尽くせない程の悲しみであることよ)
と、涙にくれながら勢至丸様との別れを惜しまれました。

 勢至丸様にとっても、父との別れに続き、今またたった一人の肉親である母とも別れて行かなければならないことは、悲しみの極致でありました。しかし父の遺言を深く心に刻んでいた勢至丸様は、悲しむ母に、「お側でお仕えしたい思いで一杯ですが、苦しみの世界から抜け出す佛法を学び修めることこそ、真の報恩となると心得ます」と再三慰め諭されて、悲壮なる決意で比叡山へ旅立たれたのです。



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