共に育む

 先日、あるお檀家さまより一つの質問を頂きました。そのお方は、お父様を一生懸命お見送りになりました。お通夜、お葬儀をご一緒に勤めさせていただきまして、四十九日のお参りに伺った時の事です。

 「佛さまというのは、たくさんいらっしゃいますが何故、浄土宗は阿弥陀さまなのでしょうか。様々な書物には、佛さまとはお釈迦さまとあり、人間という存在から悟りを開いて佛になられたのですね。では、阿弥陀さまも元は人間だったということでしょうか。」

 私はその質問に対して、佛教は歴史上の人物であるお釈迦さまが説かれた教えである事、佛さまは沢山いらっしゃること、それぞれの佛さまは各々の教えを示されている事から、広義において存在の本質的な違いが無い事、その中で特に阿弥陀さまの教えが説かれる『浄土三部経』を説き示すためにお釈迦さまはこの世に出られたことが出世の本懐(この世に生まれ出たことの目的))であることをお話しました。更には、お檀家さまは多くのご親戚の法事等に出席され、その各家でそれぞれの宗派の教えを説かれる中で混乱が生じる状況である事、またそれらは、同じお釈迦さまの教えであり、それぞれの佛さまの浄土へ導いていただく尊さをお伝えしました。そして数ある教えの中で阿弥陀さまが示される本願(本願を信じ、お念佛を称えること)をお念佛の元祖である浄土宗祖法然上人が求道(ぐどう)の末にお選びになった事、よって阿弥陀佛さまに任せきるという意味での「南無阿弥陀佛」であり、浄土宗の教えは佛教の広い教えの中の一つの存在であるが、最も凡夫に適した教えである事についてお話をしました。

 私は、ふいに頂いたその質問に私の説明不足からそのような疑問をお持ちになったという申し訳無さと共に、葬儀の一連の儀式を執り行う過程で佛教の根本や阿弥陀佛を信仰するという事を説明不足のままにしていたことに気付かされました。私は、臨終のお参り(枕経)の折には早速阿弥陀さまのお導き(阿弥陀さまが建立した極楽浄土への引接(いんじょう))の姿である来迎佛(らいこうぶつ)さまと共に「南無阿弥陀佛」とお称えしましょう、というところからお参りを始めていたのです。

 その質問を下さったお方は、お参りの折には家族全員揃って声を合わせてお念佛をお勤めになられました。その懸命な思いから、「南無阿弥陀佛」とお称えする意味について疑問を持たれたのです。この質疑が無ければ私は土台が無いままお念佛についてお話をしていたかもしれません。
 しかし、私がお答えした事は果たしてその方に最適なお答えであったのでしょうか。私は、お寺にいつもお越し下さり自然に手を合わせて下さるお檀家さまに対してお話をする事に慣れてしまっていたのかもしれません。教えを説く人間としてその方々の願いに合致しない事は、こちらの独りよがりに過ぎなくなるものです。

 思い返せば、法然上人はお念佛の教えを説かれる折にその方々とのやりとりをなさいました。そしてそのやりとりは、その方の願いに合ったお答えを導くものでした。例えば、現在の兵庫県高砂において漁師の老夫婦が、生業(なりわい)である漁によって魚の命を奪っている事を憂い、地獄に墜ちるのではないかと不安を抱いていたところ、その地で法然上人は二人に念佛往生を説かれました。そして主人からの念佛往生が可能であろうかという質問に対して、法然上人はその老夫婦の生業を尊重された上で念佛行を全うする事により往生の安心を説かれました。この後、二人はその言葉により念佛を実践し往生を遂げるのです。
 私には、お出会いする方々に最適な言葉や振る舞いがまだまだ出来かねます。しかし、このたびご質問を頂いたお方には、その後有り難い事に浄土宗のお念佛の教えについて少しずつ問いかけを頂いております。今後、更に生きた言葉と振る舞いを檀信徒の皆様との間に育みながら、法然上人のお念佛をわかりやすくお伝えして参りたいものです。

南無阿弥陀佛

2014年04月23日
山口教区浄土宗青年会 藤本淨孝