私とお念佛

 これが信仰体験なのかと問われれば少し違うのかも知れないが、私自身お念佛をお唱えしていて、図らずも涙を流してしまったということがこれまでに、たった一度だけある。

 それは別れの悲しみの涙ではなく、喜びの涙であった。

 今でもよく憶えている、平成18年の年の瀬、総本山知恩院様で行われた法然上人のお身拭い式に参加させてもらった時の事である。その年、私は浄土宗教師修錬道場という修行道場に参加させてもらっていた。12月のその時期は、ちょうど「歳末助け合い募金」の期間で、我々道場生は連日、京都の街に出て、日が暮れるまで街頭托鉢に励んでいた。

 世間はクリスマス一色、繁華街で一人僧侶の姿で持ち場に立っていると、冷ややかな目、好奇の目で見てくる人がほとんどだったが、それがお寺から一歩出た自分の姿なのだと受け止め、寒空の中、気持ちを奮い立たせお念佛をお唱えしていた。

 中には手を合わせ、一緒に唱えてくれる人もいてそれが何より嬉しかった。

 しかし目の前を足早に行き交う人々の中で、ただひたすら立ち続けていると、孤独と慣れない緊張もあってか、自分の回りだけ時間が止まったような、周りから取り残されたような、妙な感覚になり不安が押し寄せてくる。自分は恥ずかしいことをしているのか、冬の冷たい風が身体だけでなく心に沁み込み、気持ちが途切れお念佛の声がだんだんと小さくなり、しまいには
嫌になっていた。

 これまで経験したことのない思いだった。

 そんな寂しい思いで迎えた、その年の知恩院様のお身拭い式だった。そこには何百何千という同行の人達がいた。皆一心にお念佛をお唱えしていた。
 街中で人の目を気にしてお念佛唱えていた自分が恥ずかしくなり、何とも申し訳ない思いに駆られ、ただ皆とお念佛唱えていた。堂内に響き渡る、大きくて力強いそのたくさんの声に、小さくて頼りない自身の信仰の、大事な部分を励まされているような思いになり、純粋にお念佛を喜んでいた。

 自分でも無意識だった、涙が出ていた。

 法然上人は「一人でお念佛唱えられないならば、同行の者と唱えなさい」とおっしゃっている。
 恐らくそのご生涯で、自身の心の弱さというものに目を背けず、真っ直ぐ見つめ向き合われた法然上人だからこそ、お念佛唱えるのはその人に合った手段、方法でいいのだと励まして下さっているお言葉なのだと思う。

 たくさんの人と唱えることが本来の目的ではない、しかし仲間がいるから喜び励まされることがある。お念佛もそうだと思う。

 来年は、法然上人の800年大遠忌を迎える。大遠忌という節目を迎えるにあたり、お念佛を皆と共に唱える喜びというのを
大事にし、自身の信仰の励みにしたい。

 時代は隔てても、目の前を足早に行き交う人々の中にこそ、救いを求める人はきっといる。その人と向き合ったなら、確かな信仰と勇気を持ってこう伝えたい。

 「一緒に唱えてみませんか?」

 そのみ教えを信じ行じ、そして今の世に伝えてゆく者として、一生涯かかってもいい、一人でも多くの人とお念佛を喜ぶことで、800年前にご往生された、法然上人のご苦労の万一に酬いたい。

南無阿弥陀佛

2010年07月15日
兵庫教区浄土宗青年会 西極楽寺 木上徹哉