お盆は「いのち」を考えよう

 今年もお盆の時期がやってきました。大切な方を亡くして初めてのお盆を迎えるご家庭も沢山おありだと思います。家族・親族が集まって亡き人のことを思い出し、また自分たちの近況報告をしあうのもお盆です。今年のお盆はそんな方々と「いのち」について語り合って頂きたいと思うのです。

 新盆(初盆という地域もあり)を迎える精霊を人間に限定しては本当に「いのち」について考えることは出来ません。たとえば口蹄疫の疑いで殺処分を受けた牛・豚などです。一連の報道を聞き、仏教信者が多いとされる日本国内で何人の方が手を合わせ、浄土宗檀信徒の何人の方が念仏回向したのでしょうか。

 私の「いのち」も動物の「いのち」も平等なはずです。ところが、私の「いのち」と遠く離れた宮崎県の動物の「いのち」を本当に同価値として受け止めることは極めて難しいのです。私が大事にする「いのち」は、私に近い存在の「いのち」で、距離的・形状的・心情的に私と離れた存在の「いのち」を知らず知らずの内に軽視してしまう、それが私自身の本当の心と言えるでしょう。そういう心を持っているからこそ、かなり意識をしなければ、口蹄疫の疑いで殺処分された「いのち」に手を合わせることも、お念仏をお称えすることも難しいのです。さらには食物として毎日頂いている「いのち」に「頂きます」と手を合わせることすら忘れ去られようとしているのが現実です。他の生き物の「いのち」をもらってしか生きることのできない我々です。みんなで声を掛け合ってしっかりとお念仏回向を心がけるべきではないでしょうか。

 自分に近い「いのち」を知らず知らずに大切にしている私が、最も大切にしている「いのち」は他でもない私自身の「いのち」です。自分が可愛いからこそ、自分の欲望のままに生活をし、他人に迷惑をかけることもあるのです。たとえ他人を傷つけることが分かっていても、ついつい自分の欲望を優先してしまう、それが本当の私なのです。なぜなら他の動物や他人の「いのち」より私の「いのち」が大事で可愛いからなのです。

 それほどまでに大事な私の「いのち」がいよいよ終わろうとするとき、どのような思いになるのでしょうか。大事でないものを失っても悲しいという感情は生まれて来ないのです。しかし大切なものを亡くしたとき、言葉では表現できない悲しみ・苦しみがあふれてきます。その大切なものの究極が、私自身の「いのち」なのです。つまり究極の悲しみ・苦しみが死を迎える際におとずれるということです。死は必ずやってきます。にもかかわらず死から目をそらし、私自身に必ずやってくる究極の苦しみを見つめずに生きていないでしょうか。皆様はその苦しみをどうやってお迎えになりますか? 

 私は間違いない教えで、その苦しみを乗り越える準備をしています。それは南無阿弥陀仏とお念仏をお称えするだけなのです。お念仏を称える者を、臨終の究極の苦しみから救うため自らお迎えに来て、苦しみのない極楽浄土にお救い下さり、やがて私が仏様になるまでお育て下さる仏様こそ阿弥陀様です。その為に仏様に成られたのが阿弥陀様なのです。今もお念仏の声に耳をすまし「必ず迎えにいくからね」と待っておられるのです。私たちは、ただ「阿弥陀様助けて下さい」と心を込めてお念仏をお称えするだけでいいのです。

 今年のお盆は、自他共に究極の苦しみから間違いなく逃れる方法を、あらゆる「いのち」を通して考えてみませんか?来年のお盆を迎えられる保証は誰にもないのです。私は南無阿弥陀仏とお念仏をお称えすることをお勧め致します。

南無阿弥陀佛

2010年08月01日
兵庫教区浄土宗青年会 宝地院 中川正業