雨にも負けて
あめにもまけて かぜにもまけて
それでもいいよといえる そういうものにわたしはなりたい
あめにもまけて かぜにもまけて
すべてはそこからじゃないか そういえるものにわたしはなりたイ
太陽族「doromizu」より抜粋
朝、電車の中でこの歌を聞いた私は、泣いた。自分のことなのに理由は未だによくわからない。辛いこともなかった訳ではないが、そこまでのことではない・・・・・・。しかし、私が生きているこの世の中は、平和な日本と言いながらも、必死に生きなくては生きられない、蹴落とされる弱い者の方が悪いという「空気」に満ちていて、いやになることは毎日のことだ。「何事にも負けてはならない」「人より少しでも早く、ぼやぼやしていてはほかの人に何かを奪われてしまう」そういう「空気」に満ちていると感じる。電車に乗る時も最近では90%くらいの確率で横入りされるし、道を歩いていても、人よりも一人でも早く行こうとする人が咳払いや舌打ちであおってくる。私はいちいちイライラして、その都度小さな男だと落ち込んでしまう。もっとよく、もっとよくの「右肩上がり社会」と表現する人も少なくないこの社会だが、私は「滑り込み社会、知らない人は全員敵の社会」とでも名付けたい。良い椅子を取り合う、そのためには全員が敵、ギリギリ滑り込んだら一つ勝ち・・・・・・。こういう社会がいやになって、現に引きこもったり、命を絶ったりする人は後を絶たないのではないだろうか。こういう考え方が正しいかそうでないかということは、人それぞれであっていいと思うが、果たしてこんなところまで勝たなくてはならないのだろうか?と思うことはしょっちゅうある。そんなことを毎日考えている中で、突然頭に響いた冒頭の言葉が、私の心を大きく動かした、そういうことだったのだと思う。
これまでに悩みを打ち明けて「それはダメだ」「そんなに甘いことを」と言われてすっとしたことは一度もなかった。ついこの間もただひたすら悩みを打ち明ける私の話を「ふんふん、そうか、そうか」とただひたすらに聞いて下さった方がいた。その時は本当に救われた。胸がすぅっとして頑張ろうと思えた。しかし、どちらかというと「気合が足りない」「気にするな」というアドバイスの方が正しいという「空気」が圧倒的なのではないだろうか?そんな「空気」の中で「負けたっていい」と大声で言えることは、ものすごく勇気がいる事だと思う。しかし、そう言ってほしいという人、この言葉で救われる人はどれだけたくさんいることだろうか。
こういう立場に立てる人の多くは「負けたこと」があると思っている人、つまり壁にぶつかって自分の弱さを痛感し、そこから何ができるかを必死に追いかけている人達である。こうした経験を経た人の行動がどれだけ社会に必要とされているか、私は身を持って実感した。
法然上人は、負けたっていい、夢破れてもいい、それでも必ず救われる、そういう教えを当時の社会の中で堂々と主張された。これが浄土宗の思想のこの上なく尊い部分だと思う。そして現代社会の中でひときわ光を放つ教えであると確信している。そんな私たちが救われるためには、「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」「はじめには我が身のほどを信じ」ということをおっしゃっておられる。自分は強いと思っていても絶対にいつか負ける時が来る、どんな人でも必ず過ちを犯すことがある、すべての人はもともと弱い・・・・・・そのことに向き合うこと、それこそがすべてのスタートなんだよ、とおっしゃって下さっているのだ。自分は弱い、そしていつか必ず負ける、そう思うことは全く「悪いこと」などではない、むしろそれが始まりなんだとおっしゃっているのだ。しかも800年有余年も前からだ。800年も前、今よりももっと悲惨だった時代に大声で叫ばれたこの叫びが、多くの人たちに届くこと、多くの人に叫ばれることを私は願ってやまない。私も浄土宗僧侶として、そして今の社会において、胸を張って叫べるようになりたい。「雨にも負けて風にも負けて、それでもいいよ」と。
出典:太陽族「doromizu」(『3150』BANANA MOON RECORDS 2010)
https://www.youtube.com/watch?v=c0gEQSVgDM8
合掌
2014年03月17日
千葉教区浄土宗青年会 郡嶋昭示