気づける私

 比較的暖かかった九州のこの冬も、寒気がやってきて冷え込んできました。お墓参りに来られるお檀家さんたちにご挨拶をすると、皆さん口々に「最近、寒くなってきたけど、年々雪が降らなくなってきたねぇ」とおっしゃられます。地球温暖化の影響なのか、平地ではあまり雪が降らなくなりました。私が小さい頃は境内に降り積もった雪に喜び、雪だるまを作っていました。雪に不慣れな九州の人にとっては降らない方が良いのでしょうが、ご近所の玄関先に雪だるまを見かける事が無くなったのは、寂しいような気もします。

雪の中(うち)に 佛の御名を 称うれば つもれる罪ぞ やがてきえぬる

 このお歌は私たちが普段の生活において、知らず知らずのうちに積み重ねてしまう罪を、浄土宗の宗祖・法然上人が降り積もる雪に喩えてお詠みになられた歌です。大概の人は「私は罪なんて犯していません。」とおっしゃる方が多いのかもしれませんが、ここでいう罪とは殺人や強盗・窃盗などの刑法に触れる犯罪だけのことではありません。

 インターネットのコミュニケーションツールのひとつにツイッターがあります。本来は自分の日常の出来事を投稿し、他の人と交流を楽しむものであります。しかし最近は一部の人が他人への迷惑を省みずに面白がって、自らの迷惑な行為を投稿する方がいます。例えば電車の線路に意味も無く立ち入ったり、公共の場で裸になったりする、明らかな犯罪行為などもありますが、マナーを欠いて、電車の網棚に寝転がったり、不特定多数のお客さんが使うお店の調味料を口や鼻につけている姿を投稿する方がいます。その様な投稿者の目立ちたい、かっこいいと思われたい欲に駆られての行為は三毒の煩悩「貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろかさ)」の「貪」を犯しています。そしてその愚かな投稿に触発され、自分も同じように、或いはそれ以上に目立ちたいと「癡」を犯している方もいます。
 また自らの職場において、上司から失敗を注意された腹いせなどから、衛生環境が求められる場所での不衛生な愚かな行為を投稿している人がいます。自らは注意されたことを反省・改善するべきなのに、その事に反省するどころか、逆に怒りから恨みを持ち愚かな行為に及んでいます。これは「瞋」にあたり「どんなときでも怒ってはならない」という仏教の不瞋恚戒(ふしんにかい)を犯しています。怒りは全ての善行功徳を焼き尽くすと言われ、その怒りを容認するようなことはないのです。どんな時でも、その怒りの本質を知り、じっと心を落ち着け、決して怒らない努力が必要なのです。しかし、私も含め過去を振り返った時に、不利な立場や、自ら望む状況にならなかった時に怒りを感じなかった方はいらっしゃるでしょうか。

 十数年前、お寺から程近くに知り合いの農家さんがいて、その方が所有している収穫が済んだ水田に、若い男性の運転する車が飛び込み横転して、亡くなられるという事故がありました。その男性のご両親は突然の息子の死に嘆き悲しんでおられたのですが、葬儀を終え、間もなく、現場の水田におられました。事故の時の大量のガラス片で水田や農家さんに息子が迷惑をかけてしまった。それで拾いに来られたということでした。本来なら、農家さんは生計を立てていく為の大事な水田でガラス片により怪我をするかもしれない、また大事な農耕の機械が壊れてしまうかもしれない、その様な損害を被り怒ってもよいのだけれど、ご両親のお姿を見て、怒ることもせず、優しい言葉をかけ、一緒にガラス片を拾われていました。それは農家さんにご両親の心と行動が伝わり、その農家さんは心を落ち着け、怒らない努力に励まれたからでしょう。

 私たちは、知らず知らずのうちに罪を犯しています。しかし、その日頃の罪を法然上人は、「佛さまの御名『南無阿弥陀佛』とお念佛をお称えすれば 降り積もった雪が日の光によって、たちまち溶けて消えいくように、阿弥陀様の慈悲の光によって消えていくものですよ」、とお示し下さっています。しかし、これは、お念佛を称えれば、何をしてもよいということではありません。一つ罪が消えても、知らぬ間に降り積もる雪のように、新たな罪を犯し、重ね続けるのが私たちです。そのような自分を省みて、常日頃からお念佛をお称えしていくことが大切なのです。

 そうしたお念佛によって、罪を消していただくばかりではありません。お念佛とともにある生活の中に、その罪に気づける私、罪を造らないようにと心がけられる私に近づけるのではないでしょうか。法然上人のお歌を心から感じとり、噛みしめながら、お念佛を称える日々を共々に送りたいものです。

合掌

2014年02月01日
佐賀教区浄土宗青年会 永田智之