自業自得

 佛教を開かれたお釈迦様は、「自業自得」という言葉をお示し下さいました。一般的には悪い事をすれば、悪い結果が出る。という意味ですが、本来の意味は、「定まらぬ業を自分自身で変えて行く」という意味です。良い行いをすれば、良い世界を歩むことが出来る。又、怒りや欲に身を任せた生活をしていれば、苦しい世界を歩まなければなりません。そして悪業を積んでいればこの世でも苦しみが多いように、命尽きる時には確かな手立てもないまま、さらに苦しい死後の世界を迎えなければいけません。

 私も過去を振りかえれば、生きる為に命を奪い、他人を言葉で傷つけ、恐ろしい事すら考えてしまう、そんな自分中心の生活があるものです。法律には触れずとも、大小様々な罪を重ね、本当に情けない姿、恐ろしい我が身だと思います。今までの自らの業を省みれば、自分がこの世を離れた後に受ける得は、安らかな、素晴らしい世界とはとても思えない。だからこそ、私は阿弥陀様という佛がいらっしゃる事を本当に嬉しく思います。

 阿弥陀佛という佛様は、私たちが後の世を「自業自得」で苦しみの世界に迷う事のないよう、慈悲の心で苦しみのない世界、極楽浄土を構えて下さいました。
 しかし、私たちは、良い事を勤めきれず、悪い事を犯してしまう愚かな身であります。そんな私たちにとって、極楽浄土が絵にかいた餅になってしまわぬように、必ず極楽に生まれることが出来るように、慈悲の心をもって誓いを立ててくださいました。「極楽浄土に生まれたいと願い、ただ『南無阿弥陀佛』と称えたならば、必ず極楽浄土へと救いとる」と阿弥陀様はお約束して下さいました。

 私の勤めるお寺のとあるお檀家様(Aさん)のお話です。Aさんに阿弥陀様の慈悲深さをお話した数日後の事でございます。Aさんは民生委員をされていて、お年寄りのご家庭などに声を掛けられていたのですが、自分の気の合う方にしか声を掛けておられませんでした。

 「阿弥陀様がみんなに手を差し伸べているのに、なぜ俺は選んでいるのだろうか。これじゃあダメだ!」

と思い、その日から今迄声を掛けていなかった方にも声を掛けるようになられたそうです。
 そうされるうちに、老々介護をされているお宅の方が、苦しい胸の内をお話されて、最後に「声を掛けてもらえてよかった。」と涙を流して喜んで下さったそうです。その事をとても嬉しそうに話して下さいました。

 しかし、その後に伺ったお宅では、Aさんが声を掛けるや否や

「うちは大丈夫。Aさん、出しゃばった真似はしないで下さい。ほっといて下さい!」

と言われ、ピシャッと戸を閉められた。

 Aさんはこの事に腹を立てて、ずっと愚痴をこぼしていらっしゃいました。しかし、あとから考えれば、Aさんがどこかで、訪問されたお宅に対して言葉で傷つけてしまったのでしょう。話しかけられるのも嫌だと思われてしまったのもAさんが作った自業の結果であります。良い事を行おうと思っていたのに、そんな自分の業を見つめる事なく、その結果に振り回されて、何時の間にか怒り、愚痴の姿のAさんでありました。

 そんな自分の行いを振り返ったのか、又、怒りに身を任せた自分の姿を恥じたのか、更に数日後、Aさんがお話下さいました。

 「和尚。俺はいつも怒ってしまう。言わなくていい事を言ってしまうんだ。だからどんなに遅く帰っても、家に着いたらまず最初にお佛壇に行って、お念佛を称えるんだ。そうすると、自分のしゃべった言葉を思い出す。怒りで煮えくりかえっていた姿も冷静に思い返す事が出来る。そうして、情けないなぁと思いながら、それでも阿弥陀様は見捨てないんだよなぁ。俺がみんなに声を掛けている何倍もの思いで阿弥陀様は俺を見てくれているんだよな。俺の念佛する声を、心から喜んでくださっているんだよな。そして、極楽浄土にいる俺の母親もきっと笑いながら見ていてくれるんだよな。だから俺は毎日、お念佛を称えるんだ。」

 Aさんの心の移り変わりは、正に私たちの姿そのものだと思います。自分で作った業をなかなか受け止めきれない。正しい事をやろうとしながら、怒りや欲にぶつかって間違った行いをしてしまうものです。
 
 それでも、そんな私たちでも、むしろ、そんな私たちだからこそ、救いとりたいと願って下さる阿弥陀様であります。

 とは言え、許されるから何をしてもいいのではなく、こんな自分をも許して下さるからこそ、我が身を振り返りながら、諦めずに少しでも正しい行いを勤めて行く。「自業自得」を思い悪業を減らしていく事で、後の世だけでなくこの世での思い通りにならないわが姿、心の苦しみから、少しでも離れて行きましょう。

 そして、どうか日頃のお念佛を大切にして下さい。日頃称えるお念佛こそが、後の世とこの世の自分の助けとなります。この世ではどうにも思い通りにならず、苦しく悪しきわが心・我が姿であっても、日々お念佛を称えながら、懺悔(さんげ)する。そして、この世での命終わる時こそ、煩いの一切ない阿弥陀様の極楽浄土へ、共にお救い頂きましょう。これこそ「自業自得」であります。

合掌

2014年01月18日
静岡教区浄土宗青年会 安井隆秀