しがらみとお念佛
「青年僧のお話」にご縁を頂いたのは、十一月の中旬、山形でのことでした。当時の山形は紅葉まっ盛り。辺り一面がとても色鮮やかだったことを、憶えています。秋景色の美しさは、日本を訪れる海外からの観光客の絶賛するところですが、もちろん風流人の手によって、古来より歌として詠まれてきました。
「山川に 風のかけたる しがらみは
流れもあへぬ 紅葉なりけり」
春道列樹(はるみちのつらき)という人物の作です。山中の小川に風がかけた「しがらみ」は、流れようとして流れられない紅葉であったよ、というほどの意味。
色とりどりの紅葉が、「しがらみ」として錦を織りなすようにきらきらと、川底に溜まっている。そんな華麗な光景を眼前に彷彿とさせる秀歌として、この一首は高い評価を受けてきました。
この歌でいう「しがらみ」とは、流れをせき止めるために、杭に木や竹を渡した柵のことですが、その解釈は風雅を尊ぶ、のどかな和歌の世界ならでは。「生き馬の目を抜く」と評される現代にあって「しがらみ」といえば、様々な形で私たちにからみついてくるものに、他なりません。
「しがらみってやつはな、時として人間を小さく、みみっちくしてしまうことがあるのよ」…ドラマ『半沢直樹』の原作者、池井戸潤さんはこう言います。
私たち人間は、一人では生きていくことができない、社会的な生物です。そうである以上、周囲の都合などに「しがらまれた」結果、自らが是としていないことをしてしまい、後悔に苛まれる。そうした経験があるのは、私だけではないでしょう。
さて、浄土宗に限らず佛教の根本的な目標は、悟りを開くことにあります。悟りを開くとは、苦しみから抜けだすこと。その境地に至った人を、「佛」と申します。
「佛も昔は 人なりき われらも遂には 佛なり
いづれも佛性 具せる身を 隔つるものこそ 悲しけれ」
という今様があるように、私たち人間には佛性、佛となる可能性があります。それなのに悟れない、苦しみから抜け出せないのは何故なのか。いったい何が佛と「私たち」を隔てているのでしょうか。
それは欲に「しがらまれている」からだ、と佛教では考えます。名誉欲・色欲など色々な欲、その欲による「しがらみ」を断ち切るために、多様な修行が実践されてきました。
例えば、世俗を絶って山中で独居。しかし、悲しいかな社会の中に生きる私たちには、そうした高踏的な生活はできそうにありません。
では、私たちに救いはないのでしょうか。
この疑問に、お答えになられたのが法然上人様でした。私たち全てが最終的に救われる道を、上人様はあらゆる経典の中に求め、求め、求め続けて、そしてとうとうお念佛による阿弥陀様の救済を、弘く易しくお示しくださったのです。
世の中に生きている以上、全ての「しがらみ」を断ち切ることは不可能。だから「南無阿弥陀佛」とお称えして、臨終のとき、阿弥陀様に極楽という世界へと迎え取っていただこう。その地でなら、「しがらみ」を断ち切った生活ができ、一切の苦しみから解放される。お念佛こそが私たちの救われる道だ。上人様は、そう仰います。
「あみだぶに 染むる心の 色に出でば
秋の梢の 類ならまし」
という、上人様御作のお歌がございます。阿弥陀様のみ教えに深く染まった心が、色として現れ出るとしたら、秋の紅葉のような色なのでしょう、という意。
燦々と注ぐ光を夏の間によく浴びた葉ほど、秋になって綺麗に色づくとか申します。「秋」という字には「とき」という読みもあるそうですが、来たるべき命終の「とき」を彩るためにも、「しがらみ」の中にありながら、共にお念佛に励んで参りましょう。
合掌
2014年01月01日
栃木教区浄土宗青年会 大庵寺 釆澤匡俊