当たり前というありがたさ

 この「青年僧のお話」を書くにあたっても、何を書こうか、また言葉の意味を調べるためなど、何度もインターネットを利用した。“ネットで調べものをする”いまや、当たり前である。もちろん、中には有害なもの、見当違いなことが書いてあるサイトもあるので、そういった点には注意が必要だが、上手に使えばたいへん便利でありがたい。
 「ありがたい」は「有り難い」。つまり、有ることが難しいということがその語源・由来なのだそうだ。
 インターネットが一般的なものとして利用されるようになったのは、ここ10年ぐらいのことであり、それ以前はごく一部のコンピューターに詳しい人たちが使っていたにすぎない。さらに以前は存在すらしていなかった。現在でも、分け隔てなく誰もがその恩恵にあずかれているわけではない。時代、国や地域など場所、また、それぞれ個人の置かれた状況によっても左右される。
 普段の生活の中で、ついつい当たり前だと思っている便利さは、実に多くの人が介在し、多くの条件を満たしているからこそ成り立っている。ひとたび、どこかが滞ってしまったり、駄目になってしまえば、その当たり前はもろくも崩れ去ってしまう。

 「法爾(ほうに)の道理」という言葉がある。「法爾」とは自然とそうなることを意味する。
 法然上人は御法語のなかで

  『法爾の道理といふ事あり。炎はそらにのぼり、水はくだり
  さまにながる。菓子のなかに、すき物ありあまき物あり。
  これはみな法爾の道理なり。阿弥陀佛の本願は、名号をもて
  罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば。ただ一向に念佛
  だにも申せば、佛の来迎(らいこう)は法爾の道理にうたが
  ひなし』   (つねに仰られける御詞)

 と仰っている。
 阿弥陀さまは、罪悪の衆生である我々を導くために、『「南無阿弥陀仏」と称えた者を、必ず極楽浄土に往生させる』という本願を立てられた。ゆえに、ただひたすらお念佛をお称えした者が命尽きる時、阿弥陀さまが来迎し極楽浄土に導いてくださることは法爾の道理、つまり自然現象と同じように疑う余地のないことである。
 それはあたかも炎は空に向かって燃え上る、水は低い方へと流れる、果物には酸っぱいものもあれば甘いものもあるように、当たり前のことである。

 しかし、ここでいう、「当たり前」は前段で述べた「当たり前」とは違う。どんなことがあっても、絶対にゆるぐことのない理(ことわり)である。決して覆ることはない。だからこそ、どのような苦難な状況の中にあっても、酷い災いにみまわれたとしても、どれほど貧しくひもじく、惨めな思いをしていたとしても、我々は阿弥陀さまに極楽浄土への往生を願うことができ、そして、必ず極楽浄土に往生させていただけるのである。

 自らの往生のために称えるお念佛も、亡き人をおもいご供養のためにお称えするお念佛も、また、極楽浄土での再会・倶会一処(くえいっしょ)することを願いお念佛をともにお称えすることができるのも、なにものにも左右されることのない法爾の道理たる阿弥陀さまの極楽浄土へのお導きがあるからである。

 あらためて阿弥陀さまの慈悲に満ちたお念佛の御教えを思うとき、こうしてお念佛をお称えできることはたいへんありがたい。そして、共々に極楽浄土に往生する、そのためのお念佛をともに励みたいものである。

合掌

2013年12月19日
群馬教区浄土宗青年会 阿部俊哲