秋の空

 爽やかに澄みわたる秋の空。「見に来てやー」、「うん行くよ!」と約束したわが子の運動会。校庭の保護者席に着いて、最初に私がしたこと。皆さんも自分に置き換えて、ひとつ考えてみて下さい。まず皆さんは何をしますか?
 …わが子を探すのではないでしょうか。私は細い目をさらに細くして息子がどこにいるか、探して見渡しました。「あ!いたいた!あそこにいてるわ!」わが子を見つけると自然と笑みが生じ、ひとまずほっとしますね。一方、子どもの方も一応親が見に来てくれていることを確かめますが、確認が取れるとそのあとは友達同士で遊んだり、競技に一生懸命だったり。もう親の視線そっちのけで自分たちのことに夢中です。
 しかし、親はそんなわが子をずっと見つめていますよ。最後の最後まで…。ちゃんとクラスに溶け込んでいるかしら。お友達とうまく遊べているかしら。迷惑は掛けてないかどうか。いろいろなことを願い案じながら親は子どもを見守っています。

 「親」という字を分解すると、「立・木・見」となります。親という漢字の成り立ちには諸説ありますが、私が一番いいなぁと思う説は次のものです。
 親は木の上に立って見ているのですが、どこを見ているのか。それは、高い木の上から遥か遠く、ではなくて、立っているその木の真下を見ているのです。木の下にはわが子がいて、ぐるぐると木の周囲を陽気に走り回ったり、おもちゃ遊びに熱中したりしている姿があるのです。子どもの方はもう無我夢中で一心不乱に遊んでいるのですから、木の上から親が見ていることには気づいていません。けれども親はいかなる時も常にわが子を見放すことなく、案じて見守り続けている。その親の姿こそが、「親」という字なのですよ、というものです。…ああ、ありがたいなぁ…。大きな大きな親心に触れることができ、あたたかな気持ちで胸が満たされました。
 親がわが子を見ているのは、小さな子どものうちだけではありません。社会人になっても、いくつになっても、見守っているのです。たとえ、この世に姿がなくとも、必ず見ていてくれるものです。

 親のごとくの眼差しで私たちを見守り、わが子以上の思いで、分け隔てなく常に救いのみ光をそそぎ照らしてくださっているのが阿弥陀如来様です。「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨」(阿弥陀如来様のお慈悲の光明は、あまねく十方世界を照らして、私たち念佛の衆生を摂取して捨てたまわず)とは観無量寿経の中のお言葉です。阿弥陀様のお慈悲の光明は、あらゆるところを照らしてくださいます。また、南無阿弥陀佛と称える者は、そのみ光りに包まれ、誰一人漏れることなく、極楽浄土へとお救いいただけるのです。阿弥陀様は、南無阿弥陀佛とわが名を呼ぶものはいないか、極楽に往生したいと思うものはいないかと、日夜御目を見まわし御耳をそばだて、救いのみ光りを放ってくださっています。

 そんな有難いお慈悲の光明を全身に受けている私たちです。わが身わが命に代えても必ず救う、そのような御心でいかなる時も私たちを救おうとしてくださっている阿弥陀様。その尊いご恩に感謝し、私たちは素直に「南無阿弥陀佛」とお称えしてまいりましょう。親以上の思いで、この世だけでなく後の世までもお守りくださる阿弥陀様に少しでもお喜びいただきたいものです。ですから共々にお念佛申してまいりましょう。秋の空のような心でもって。

2013年11月01日
大阪教区浄土宗青年会 妙楽寺 河野真元