お念佛の中に
お盆やお彼岸には、沢山のお檀家さんがお墓参りにいらっしゃいます。お墓にはきれいな花が手向けられ、故人が生前大好きだったものも供物として上げられます。でも声に出してお念佛をお称えしている人はあまり多くありません。「ナムアミダブ、ナムアミダブ」
お寺の幼稚園で、子ども達と週に一度、月曜日の朝に共にお念佛をお称えします。小さいながらも目を閉じ素直に一生懸命お念佛をお称えする姿は、私たち大人が忘れてしまったものを教えてくれる気がします。
私がお彼岸にお墓に上がったお花を片付けていた時のこと、一人のお檀家さんが小さな声でお念佛されている姿を見かけました。私が声を掛けますと、ちょっと恥ずかしそうに、「お寺の近くを通ると娘が見ている気がして」と仰います。実はそのお檀家さんはもう十数年前に、小学校1年生の娘さんを病によって亡くされたお父さんでした。車は道路わきに止められ、格好は仕事着のままで、もちろん花や蝋燭、線香も持ってはいませんでした。たまたまその時、私とお会いしたのですが、そのお父さんは仕事で寺の近くを通るたび、極楽に往生した娘さんのことを思い出し、墓前で、娘さんに再会するその日を信じてお念佛されていたのだなあと思うと大変胸が熱くなりました。
数年前に亡くなった、あるご年配のお檀家さんは、何度も入退院を繰り返していましたが、退院するたびにお墓参りにいらっしゃいました。そしてお参りの回数を重ねるごとにお念佛の声が大きくなっていくのです。晩年にはお念佛の声が聞こえると姿を見ずとも「今日もお参りにいらっしゃったなあ」とわかるほどでした。きっとご自分の極楽往生を願ってお念佛されていたのでしょう。
声を出してお念佛をするというのは、慣れないうちは非常に恥ずかしく感じることかもしれません。でも、幼稚園の子どもたちのように一生懸命で飾らない素直な心、娘さんを亡くされたお父さんのような極楽往生を疑わない信じる心、何度も手術を繰り返したお檀家さんのような自身の往生を願う心で手を合わせてみてください。自然とお念佛が口からこぼれ出てきます。
お念佛の元祖・法然上人は「一枚起請文」の中で、「ただし三心四修(さんじんししゅ)と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀佛にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。」と仰っておられます。三心とは、お念佛を称える者の心構えのことです。まさしく先程挙げた素直で一生懸命な心(至誠心(しじょうしん))、極楽往生を信じる心(深心(じんしん))、お念佛を称えて往生を願う心(回向発願心(えこうほつがんじん))に他なりません。極楽往生を願いお念佛を声に出して称えるということは、これらの心が自然と備わってくるということなのです。また、四修とは、お念佛を称える時の態度や心の保ち方のことであり、極楽往生を願い、阿弥陀佛を信じ、絶やすことなくお念佛をお称えしつづけていくことです。
皆さん、ご自宅のお佛壇にお参りされる時や、お墓参りの際にはもちろん、いつでもどこでもいいのです。ぜひ、声に出して南無阿弥陀佛と称えてみてください。お念佛って良いものだなあときっと感じることと思います。そして共々に、お念佛をお称えしながらの毎日を送ってまいりましょう。
合掌
2013年10月18日
山形教区浄土宗青年会 瀧口宗紀