悲劇
漫画の神様と言えば言わずと知れた手塚治虫氏であるが、その手塚氏は漫画界において、初めて悲劇の要素を取り入れたと言われている。確かに改めて手塚氏の漫画を読んでみると、『鉄腕アトム』では天馬博士によって博士の死んだ息子とそっくりに作られたトビオ(アトム)が、周りの子供のように成長しないことが原因で愛想を尽かされて、サーカスに売られてしまうという悲劇的な始まりだし、『ブラックジャック』では、主人公の黒男(ブラックジャック)が母親と共に爆発事故に逢い、最愛の母親を亡くしてしまうという悲劇に包まれた過去を持っている。このように、手塚氏の漫画は人間の明るい光の部分だけではなく深い心の闇も随所に描かれているが、そんな手塚氏の漫画の中でも、最も壮大に人間の悲劇が描かれているのが『火の鳥』ではないだろうか。
『火の鳥』とは、その生き血を飲めば永遠の命を得る事ができるという火の鳥(不死鳥)を中心に描かかれた物語だが、中でも「宇宙編」を読んで子供ながらに恐怖を感じた記憶がある。内容としては、「牧村」という宇宙飛行士が初恋の女性に裏切られた事がトラウマとなってしまい、初恋の女性の幻に惑わされる形で異星人を虐殺してしまうというものである。そしてその「牧村」が火の鳥の生き血をなめた結果、大人から子供へ戻り、また子供から大人へ戻るこの繰り返しを永久に続けながら、過酷な星の中で終わりなく生き続けなければいけないという罰を受ける壮絶な話に展開していく。その本を最近改めて読み、この「牧村」という登場人物は私たち人間の姿そのものではないかと感じた。
私たち人間は、命終われば六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の世界のいずれかに生まれ変わり、その世界で様々な苦しみを受け、命終わればまた次の世界での新たな苦しみが待ち受けているのである。これを六道輪廻というが、「牧村」と同様に苦しみに終わりがない。佛教ではこの終わりのない苦しみから逃れるために様々な修行の実践体系が確立されているが、法然上人以前の佛教は、この六道から離れることをこの世の世界における悟りによって実現するしかなかった。しかしそれは私たち人間にとって非常に困難を極めるのである。
法然上人は人間のありのままの存在を深く見つめ、「人間とは寝ても覚めても妄念ばかりが頭に浮かび、六道の世界をさまよい続ける愚かな存在である」とされ、そのような救われがたい私たちが、厳しい佛道修行に耐え、自らの力で悟りを得て六道から離れることは不可能であるという立場に立たれたのである。だからこそこの世で自らの力で悟りを得る道ではなく、念佛を称える者を必ず極楽浄土に救い摂るという阿弥陀さまの本願力によって、命終わった後に極楽へと導いて頂き、その浄土において悟りを得るという、それまでの佛教の根底を覆す御教えを私たちにお示しくださったのである。それは限られた人のみが救われる教えから、すべての人が救われる教えへの佛教の大転換であった。手塚氏が、漫画を子供から大人まで多くの人々が楽しめるものにしたように、いやそれ以上に、法然上人は佛教を生きとし生ける全ての人々に開かれた御教えへと大きく変えられたのである。
私たち人間は、時として想像もつかないような悲劇を目の当たりすることがある。またその悲劇が自分の身に起こることもある。しかも命終わればその苦しみから離れられるわけではなく、むしろこの世以上の苦しみの世界に、悲しいかな、私たちは生まれ変わってしまうのである。その生死の繰り返しが永遠に続くのが輪廻であり、だからこそ人間の一番の悲劇は輪廻することなのだ。その悲劇から私たちを救って下さるのが他ではない阿弥陀さまであり、その御教えは、ある人には修められるがある人には修められないという限定的な救いではなく、全ての人々が救われる御教えなのである。この尊いお念佛の御教えを少しでも多くの方々に伝えられるように日々お念佛を称えながら精進していきたい。
南無阿弥陀
2013年08月04日
北海道第二教区 龍雲寺 丸山孝立