人中の芬陀利華(ふんだりけ)
長かった梅雨もようやく明け、夏本番を迎えました。これからの時期、私の住んでおります地域では、蓮田に綺麗な色の蓮の花を眺める事が出来ます。佛教では、蓮の花をとても大事にいたします。お寺へお参りされますと、ご本尊様が蓮の花の上にお立ちになっていたりお座りになっていたり、内陣に蓮の常華が飾られているのを目にされたことがあろうかと思います。
では何故、佛教では蓮を大事にするのでしょうか?
ご承知の様に、蓮というのは、泥の中から出て、濁った水の中に育ちながらも決して汚されることなく、水面に綺麗な花を咲かせます。その姿が尊いという事で、佛教では蓮の花を大事にするのであります。
蓮華には色々な色がありますが、その中でも最高の尊さを表す例えに使われるのが、白(びゃく)蓮華であります。
浄土宗で特に大切にしております浄土三部経の中に、『佛説観無量寿経』というお経がありますが、その中には、
「もし念佛せん者、まさに知るべし、この人はすなわちこれ人中の芬陀利華なり」
と、説かれてあります。「芬陀利華」とは白蓮華の事です。
南無阿弥陀佛とお念佛申す者は、多くの人々の中でも尊い白蓮華のようであると、お釈迦様はお示しであります。
私の住んでおります地域は月参りの習慣が盛んで、皆さん手を合わせてお参りをして下さいます。その中の一軒のお檀家様でありますが、毎月決まった時間にお邪魔しますと、月参りというのに親類の方が何人も集まっておられ、とてもあたたかく迎えて下さいます。そして、お勤めが始まると、私と一緒に全員、大きなお声でお念佛を称えて下さいます。
一緒にお念佛を申していく中に、私にはこのご家族の誰もが、お念佛を申せば必ず阿弥陀様が救って下さるんだ、と阿弥陀様のお誓いをしっかりと信じておられるのを強く感じます。
昔に比べ今の時代は、衣食住が満たされた、とても進歩した時代であります。しかしながら、生活は豊かになっている反面、私たちの心の苦しみ・悩みというものは、二千五百年前のお釈迦様や八百年前の法然上人様の時代となんら変わらないのであります。
そんなこの世において四苦八苦に右往左往しておる身ではありますが、阿弥陀様は、この私達のために、
「南無阿弥陀佛とわが名を呼ぶものは、いかなる者でも捨てはせん!必ず救い摂(と)るぞ!」
と私たちにお約束をしていて下さいます。
一人では耐えることの出来ない大きな苦しみも、阿弥陀様のお力を頂いて、お念佛申しながら阿弥陀様と共に、この苦しみを乗り越えていく、また、乗り越えていけると、そう信じて頂くことが大切であります。そして最期この命尽きる時には、阿弥陀様がお迎えを下さり、必ず西方極楽浄土へと、この私を連れて行って下さるのであります。
泥沼の泥に染まらぬ蓮の花
お釈迦様は、この私達というのは、煩悩にまみれた凡夫であると説いておられます。そんな煩悩という泥沼の泥にまみれた私たち凡夫であっても、阿弥陀様のお誓いを信じてお念佛申していくならば、泥に染まることなく阿弥陀様のお導きによって、泥沼に咲く白蓮華のごとく、人生を清らかに過ごし、終には極楽浄土に見事な花を咲かす事が出来るのであります。
念佛申せば必ず救うとお誓いを立てて、佛様となって下された阿弥陀様。そのお誓いを私たちはしっかりと信じて南無阿弥陀佛のお念佛。
共々にお念佛を申して、白蓮華の如く尊く生きていきたいものであります。
濁る世の 人の心をそのままに
捨てぬ誓いを 頼むばかりなり
南無阿弥陀佛
2013年07月27日
尾張教区浄土宗青年会 山田照信