お護りされている

 今年に入ってわずか二か月の間に、二度も交通事故に遭いました。二度とも双方怪我がなかったことがせめてもの幸いだ、と友人に話したところ「運が良かったなあ」と言われましたが、私としては「佛様に護っていただいたんだなあ」との思いが正直なところです。

 私は登山が趣味で、学生の頃はよく北アルプスなどに登っていました。ある時、体重をかけていた岩が突然崩れたため、岩と一緒に30mほど滑落しました。下手をしたら命を落としかねない落ち方でした。奇跡的にカスリ傷ですんで運が良かった!と思いましたが、それだけではありませんでした。その後に着いた山小屋でたまたま話した方が医師で、応急処置をしていただけました。さらに、話を聞いていた山岳警備隊の人が私の荷物を持って一緒に下山してくれ、車で病院まで連れて行ってくれ、おかげで速やかに精密検査をしてもらうこともできました。

 それから数年後のある日、師匠がお説教の中でこんなことを話しているのを聞き、ハッとしました。

 「お寺や神社にお参りするときに『○○してください』とお参りするのを請求書参りという。これは別に悪いことではないが、その願いが叶ったならば、その後にお礼参りをしないといけない。これを領収書参りという。
 そもそも、法然上人もおっしゃっていることであるが、神佛に願ったことがすべて叶うのであれば、病気になり命を落とす人間なんて一人もいないはずだが、現実はそうではない。いかに神佛に願ったとしても、免れ得ないものもあるのが、この娑婆世界の定めである。
 しかし、阿弥陀佛を信じお念佛をお称えすることで、本来ならさらに重く受けるはずの病気であったとものを軽く受けさせてもらえたのだと、また命を終えた後には極楽浄土へと往生させていただけるのだと、そう信じることができるようになるのである。お念佛をお称えすることによって、命が終る時には必ず阿弥陀佛のお迎えをいただけるのだが、それだけではなく、求めずとも自然とこのような心持ちにさせていただける。この有り難いはたらきを《不求自得(ふぐじとく)》というのである。」

 そういえば滑落する前に、登山口近くにあったお地蔵様に『無事下山できますように』とお願いしてお経をあげ、お念佛を称えたんだった。今まで運が良かったとだけ思っていたけれど、あれは実は阿弥陀様とお地蔵様にお護りしていただいていたんじゃないだろうか。山岳警備隊の人には翌年改めてお礼を言いに行ったけど、阿弥陀様にもお地蔵様にも請求書参りしかしていない。
 そう思うと、居ても立ってもいられなくなって、仕事終わりに電車に飛び乗って、最寄駅で一泊した後にお地蔵様のもとまで行き、お礼参りをすませました。「よし、これでスッキリした。」そんなことを考えながら帰途についたのですが、駅についた時になにか違和感があり、足元を見たところ、はいていた登山靴のゴム部分が劣化して靴底がベロッとめくれていました。つい数分前まで、それほど険しくはないにせよ岩場を歩いていたわけで、もう少し靴の劣化が早ければまた滑落していたかもしれなかったわけです。私は、大けがをするところ、靴底がめくれる程度で済んだのです。

 この瞬間、師匠がお説教の中でお話しされていた《不求自得》という言葉が腑に落ちました。

 そうか。こういうことだったのか。お礼参りにいったはずが、実はまた護ってもらっていたのか。自坊に帰ったら、改めてもう一度阿弥陀様にお礼参りをしないと。

 阿弥陀様は、お念佛を称える者をその光で照らしお護りしてくださいます。また、多くの佛・菩薩様も、同様にお護りしてくださいます。それだけでなく、阿弥陀様は、お念佛を称える者が命終のときには、必ず極楽浄土に往生させると誓ってくださっています。
 実際に目に見えるものではないかもしれませんが、お念佛を称えることで、確かに阿弥陀様にお護りいただいている、必ず極楽往生させていただける・・・私はそう信じて、日々お念佛をお称えしております。皆様にも、ぜひお念佛をお称えいただき、この無常の世を共々に歩んでいただきたいと願っております。

南無阿弥陀佛

2013年05月03日
三河教区浄土宗青年会 朝岡知宏