人みな心あり、心各々執るところあり

 私のお寺には、聖徳太子が定めたと言われている『十七条憲法』の書があります。
 大きな額に、まるでお経のように漢文でびっしりと書かれたものです。
 聖徳太子は日本仏教の祖といわれる方ですので、お寺に掲げてあってもなんら不思議な事ではありません。
 
 先代の書としての作品であることは現住職より聞いていましたが、なぜ『十七条憲法』なのだろうと以前より疑問でしたし、恥かしながら私自身、有名な第一条の「和を以(も)って貴(とうと)しとなす」や、第二条の「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」などの、教科書でも目にする有名な言葉ぐらいで、あまり深くは知りませんでした。今改めて読み解いていくと、『十七条憲法』の深さを僅かながら感じられるようになりました。
例えば、「人みな心あり、心各々(おのおの)執(と)るところあり。」
 この言葉は、第十条の冒頭の言葉です。
 「忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。」という言葉に続き、「心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分と異なったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。」といった意味になります。

少し長くなりますが、冒頭の言葉に続く第十条の前文の意訳はこうなります。
 「相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」
 ここで聖徳太子が言いたかったことは、怒りを自分の心の中にしまい込んであきらめなさい、という事ではありません。「お互いにちがった意見があるのは当然なのだから、憤りや怒りで解決しようとしても上手くいくわけがない。その道理を知っていれば、双方がもっと謙虚になれるはずだ」ということでしょう。
 
 大切なのは、自分中心でものを見ない。相手の考え方や周囲の状況、環境に対応し、自分の考えを改め直すこと。これは、いいかげんだという事ではなく、変化に柔軟だということなのです。
 相手に怒りを感じるのは、自分が相手を理解できないから。「理解(りかい)」を逆に読むと「怒り(いかり)」となるように。相手への怒りは自分が相手との違いを理解出来ていないからかもしれません。

至心合掌

2013年03月01日
埼玉県 草加市 回向院 飯塚拓慈