念佛の功徳
昨日、63歳の男性の方に次の様なお話を聞きました。「私は、認知症の90歳の母親を自宅で介護しているのですが、本当に腹が立つ事が多いのです。何に腹が立つかと言えば、とにかく同じことばかり話しをする。『さっきも同じ事を聞いた』と怒るのですよ。そうかと思えば、私がお願いしていたこともすっかり忘れてしまい、『そんなこと頼まれたかな』と言ったり、又、私宛の電話を取り次いでくれても伝言もないし、その事までも腹が立つのです。考えてみると私は昼間仕事をしているから、母親を一人家に 残している事を悪いなあと思うのですが・・・。」
しかし、この方はこの様なことも口にされました。
「ところが、不思議なことに母親以外の認知症の方とお会いする機会があるのですが、その人達にはやさしく接することが出来ます。まったく腹が立ちません。不思議なことだなあと思うのですよ。」
家族以外の方と接する場合は客観的に冷静にその人達を見ることが出来ます。
ところが自分の家族、特に親ともなると全く冷静に接することが出来ません。なぜだろうと、ふと思う時があります。自分が何歳になろうとも親は親。絶対的な本当に大きな存在です。その親が認知症になっていることを認めたくないのです。自分が小さな子どもの頃のように困ったことがあれば必ず助けてくれる。訴えれば必ず良い返事が返ってくる。自分を犠牲にしてまでも守ってくれる。私たちはこのような親の姿をいつまでも忘れることが出来ず、又期待をしています。
さて、皆様ご存じのように浄土宗の御本尊は阿弥陀如来です。
南無阿弥陀佛とお念佛を唱えた人だけが、その阿弥陀佛の本願によって極楽へ往生、つまり往きうまれかわらせていただけると法然上人はお示しされています。
往生とは申しましても、この世を離れて彼の世界へ行くためだけではありません。この世、娑婆・忍土の世界に居りながら・・・。
私たちが今生活しているこの世界は、娑婆の世界、忍土の世界です。その世界に居りながら、南無阿弥陀佛と阿弥陀様のお名前を 呼ばせて頂くことによって、良い意味で生まれ変わらせていただけます。
これまでは、当然のことですが人間の目、凡夫の目ですべてのものを見ていました。ところが南無阿弥陀佛とお念佛を申し続けることによって、私たちは佛様のような眼ですべてを見ることが出来るようになります。
例えば人間同士の付き合い、人間関係で申しますと、今の私たちは知らず知らずのうちに人様の短所を探そうとしています。これが私たち衆生凡夫が見る人間の目ではと思います。短所を探すのではなく、その人の長所を知ることが出来るようにもなります。そのことによって、将来においてもますます人様と良い関係を作ることが出来るのではないかと思います。
阿弥陀佛は私たちを父親・母親のような大きな心で見護って下さる絶対的な存在です。
さて、私たちがこの世界で生きているうえで一番の心配事は何でしょうか。実は自分の命が尽きた後一体どうなるかという事です。
その答えを阿弥陀如来様はお答え下さっていると法然上人は次のようにお示しされています。
「往生を願いて念佛すれば、終わる時、必ず来迎させたもう由を存じて、念佛を申すよりは他のことは候わず」と。
つまり、極楽往生を願って「南無阿弥陀佛」とお念佛を申し続ければ、この世界で命が終わる時には、いかなる人でもお救いいただけるという、それは阿弥陀佛の「本願の力」によるものと、お示しになられたのであります。「本願の力」とは、私たちと阿弥陀様との誓願。阿弥陀様から私達へのお約束とお受け取り頂ければと思います。
法然上人のお言葉を私たちは、有難く受け止めて、阿弥陀佛の本願の力を「信じ」、阿弥陀佛の本願の力に「気付き」、私たちの「身」も「心」も阿弥陀佛にすべてを委ねて「南無阿弥陀佛」と申し続けようではありませんか。
阿弥陀様へおすがりするのと同じように、自分のご両親にもおすがり下さい。佛様のような眼で接して下さい。優しく接して下さい。もし、御自分のご両親が極楽へ往生されているときは、静かに合掌して「南無阿弥陀佛」とおすがり出来るような自分にならせて頂けますよう念佛相続致しましょう。
2012年12月20日
三重県伊賀市 専念寺 宮嵜美政