隠岐


“しげさ しげさと声がする しげさの御開帳 山里越えても参りとや”

 冒頭に書いたのは、隠岐の民謡しげさ節の一節である。この紹介は後に記す。

 隠岐の国は724年、伊豆、安房、常陸、佐渡、土佐と共に遠流の国と定められた。その後、幾許の流人を受け入れた。著名な流人としては、柿本躬都良、小野篁、文覚上人等、そして二人の天皇、後鳥羽天皇と後醍醐天皇である。二人とも念仏と関わっている。

 後鳥羽天皇は、言わずもがな、住蓮安楽の事件により1207年に法然上人を流罪にした。その14年後の1221年に後鳥羽天皇は承久の乱を起こし、今度は自らが罪人にされ隠岐の国に流された。そして18年後の1239年に、現在の隠岐郡海士町で荼毘に付された。そこでは絶筆の「無常講式」を認めている。それには「只彌陀の號を唱えて蓮の上を欣ふべきなり」「急いでも急ぐ可きは念仏の功」等と書き残している。念仏停止の断を下した事、また法然上人に対する処罰とは裏腹に、深く阿弥陀仏に帰依していた様子が伺われる。

 後醍醐天皇は元弘の変により、後鳥羽天皇が流された111年後の元弘二年1332年の春に、隠岐の国に流された。注目しておきたいのが、その前年の1331年の秋に一七日百万遍念仏を修すよう勅した事である。それを厳修したのが知恩寺第八世善阿である。この時の念仏は、その頃天下に疫病が流行したが為に、その攘災招福の為の念仏であった。その百万遍念仏が功を奏し、悪病は無事止んだ。その後、形は変えつつも宗派を問わず百万遍念仏が全国津々浦々に広まったのは周知の処である。御多分に洩れず、隠岐にもその行事は伝わった。寺院やお堂にも大念珠が置かれ、古老の元に近所の者が集まり念仏を称え、それを繰る風習が受け継がれていた。近年その風習は殆ど無くなったが、まだ残っている地域も若干ある。
 蛇足だが、後醍醐天皇は一年も経たない内に隠岐を脱出した。隠岐流罪中に、前年度厄病退散に効験のあった百万遍念仏で、脱出祈願をしたとするのは得手勝手な推測であろうか。そして念願が叶い建武新政を興した。

 この大念珠の百万遍は、極楽往生とは全く関係なく行われている部分がある。念仏祈願内容の、無病息災、家内安全等がそうである。元々の百万遍念仏は木?子経に説く処である。仏法僧の三宝の名を、百万遍称え煩悩を断つのが元である。これを道綽の後輩迦才が、浄土論で念仏を百万遍称えることによって、浄土往生の業としたようである。それがまた阿弥陀経の一七日と合わさった。

 地域のお堂では百万遍念仏が廃れたと上に書いた。地下の年配者の中には、幼いころ祖父母に連れられてお堂に行き、大念珠を皆で回したと言う人がいる。一度は地下に根付いたこの慣習を、今一度盛り上げたいものである。
 隠岐の島には、現在尖閣諸島と共に非常に衆目を集めている竹島問題がある。隠岐の人が住んでいた竹島は、よく映像に出る岩のようなあの島を指すのではない。あそこには人は住めない。それよりももっと朝鮮半島よりの鬱陵島を、隠岐の人達は竹島と呼び、一時期ではあるが住んでいた。安全な解決を一刻も早く求む。

 さて、冒頭で書いた隠岐民謡しげさ節の意味であるが、「しげさ」とは「出家さん」が「しゅげさ」そして「しげさ」と訛った言葉である。この言葉の意味が分かれば、自ずと歌詞の意味もわかると思う。この歌は、越後方面から伝わって来たと言われている。そこに住んでいた法話の巧みな僧侶を讃え、話を聞きたい人々の気持ちを唄ったのが、しげさ節の始まりと言われている。貧道もそれに肖りたいが故にいつも唄っている。

2012年12月13日
島根県隠岐郡 専念寺 熊澤浩隆