つきかげ

「月かげのいたらぬさとはなけれども」

 近頃ご近所の娘さんが学校を卒業して就職されました。通勤にも乗用車が 必要となり運転免許も無事に取得。普通は初心者マークを所定のところ、前と後ろに一枚ずつ貼るのですが、この娘さんの車には前に後ろに横に横にという様に10枚ほどの初心者マークがベタベタと貼りつけられています。これはこの子の母親が「これ位たくさん貼っておけば他の車が用心してくださるだろう」と娘を心配するあまりに余計に貼っているのだそうです。しかし年頃の娘のこと、そのような他人に笑われるような姿は恥ずかしい限りです。朝仕事に出かける際にはこれをはがし所定のものだけを残します。しかし気がつくとまた母親がベタベタとたくさん貼っている。それをまた娘がはがし、また母親が貼る。というようなことを毎日のように繰り返しているうちに、この娘さんはひとつ気がついたそうだ。親というのは飽きもせず子供のことを毎日毎日これほど心配してくれるものなのだなと。いつも私以上に私のことを心配してくれている。私は自分が笑われることばかり気にして、こんなに心配してくれる母親に一度も「ありがとう」といったこともない。そんな自分の姿のほうがよほど恥ずかしい事ではないだろうかと思った。そして母親に感謝の心をのべてしばらくの間は母の願いを受け取り初心マークだらけの車を走らせていた。私は親の思いに気がついたこの子はきっと大きく成長しただろうと思います。

 浄土宗の宗歌は

「月かげのいたらぬさとはなけれどもながむる人の心にぞすむ」

という法然上人が阿弥陀様の心を詠まれたものです。

 「月かげのいたらぬさとはなけれども」というのはお月様の光のように阿弥陀様の光明はあらゆる人を照らす。それは私たちが日ごろ世の中の人、皆が事故に遇わず安全であればよいなと願う思いのようなものです。
 「ながむる人の心にぞすむ」とはあらゆる人を照らす月(阿弥陀仏)の光だが、ながめた人(お念仏する人)の心にこそ宿る。阿弥陀様はお念仏する人をこそ、必ずその救いの光の中に包んでくださる。これは親がわが子だけはなんとしても事故に遇わせたくないという心からおこる動きです。何枚も初心者マークを貼ってあげるような動きです。黙っておれないのです。

 お念仏は阿弥陀様が自ら誓って必ず救うことを約束された行ですからお念仏申す人とそうでない人は阿弥陀様の目には大きく異なって受け止められます。お念仏をお称えする人を阿弥陀様は放ってはおけないのです。この阿弥陀様の誓いに随って、必ず往生させていただけると約束された行、お念仏をお称えしてまいりましょう。

南無阿弥陀仏

2012年10月25日
長崎県 南島原市 光明寺 江崎浩道