念仏~今のこころで仏を念う~

 お寺にお参りすると、よく玄関先に『脚下照顧』や『看脚下』と書かれた札を見かけます。「足下にお気をつけ下さい」「履物を揃えましょう」と標語的に使われていることが多いようですが、真意はもっと深いところにある様です。

 昔、宋の時代、法演禅師という和尚様が三人の弟子達と共に、夜道を歩いていると、突然、道を照らしていた灯火が消えてしまった。この時、禅師は弟子達それぞれに対して「自己の見解を述べよ」と命じました。すると、弟子の一人、園悟克勤が「看脚下(脚下を看よ)」と述べたといいます。これがこの言葉の語源です。『看脚下』つまり、自分の脚下を看よという教えですが、ひろく解釈すれば「我が身」「我が心」を顧み、見つめよということでしょう。

 さて、現代社会は「一億総評論家時代」などといわれます。つまり「他人の行いには批判や批評をするが、自らが直接行動しない時代」だそうです。なるほど、確かにそういう場面に出くわすことが増えて来ました。テレビ、新聞、インターネット上でも、他者への批判批評ばかりが目立ちます。まさに人の足下ばかりに目がいって、自分自身を見失ってしまっている。そんな人が増えてきた事の証左なのかもしれません。こんな時こそ自身と向き合う「仏道修行」が必要だと感じます。

 さて、数ある「仏道修行」の中でも、お念仏の行は、とても易しい修行の代表と言えるでしょう。しかしながら、本来、日々の暮らしの中で行じられるべき、お念仏の行が、法要や法事といった特別の機会にしか称えられていない事は本当に残念です。もちろん、お寺の本堂やお仏壇の前で、亡き方を偲び、心静かに称えるお念仏もとても有難いものですが、私達は日頃いつも心静かに過しているわけではありません。時に、腹を立てたり、悲しんだり、苦しんだり、果ては恨みや憎しみの心すら抱くこともある、救われ難い心を抱えているのが私達です。「念仏」の「念」の字は「今に心」と書きます。「今の心で仏を念(おも)い」南無阿弥陀仏と称える。私達が日々抱く「今の心」をしっかりと見つめ、そんな自分を受け止めて下さる御仏を思い、「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、助け給え、阿弥陀佛」と称えるお念仏は本当に有難いと感じます。

 仏道修行の最終目的はすべての煩悩を断ち、悟りを得て仏となる事です。しかし、日々の思いに一喜一憂する私達にはこの世で悟ることなど望むべくもありません。そんな私達が極楽往生を遂げ、仏と成る為の唯一無二の道がお念仏なのです。お念仏の目的は、この世の人生を終えた時、阿弥陀様のお迎えを頂いて、極楽浄土に往生する事です。

 法然上人は

 「阿弥陀佛は念仏を称えるすべての人々を(善悪の別なく)漏らさず救って下さる」

と説かれました。
同時に、念仏を称える人々に

 「廃悪修善」(悪を廃し善を修する)は仏の御心にかなう事である」

とも説かれました。念仏の実践を通して、自らの悪を改め、善を修する事は、仏の御心にかなう尊い事だと説かれたのです。
 
 さて、他人の批判に終始する生き方はとても空しいものです。得られる物は何もありません。他者への批判は、最後にはすべて自分に返って来ます。先ず、自らの心と向き合い、心に沸き上がる思いの一つ一つを受け止め、その時の今の心でお念仏を称えましょう。お念仏を称える度に、僅かながらでも悪から善へと心の変化を感じることは、とても嬉しいことです。お念仏は易しい行ですが、自らが称えなければ、その心を味合うことは出来ません。日々の暮らしの中で「お念仏」に親しみ、御仏の思いに触れてみて下さい。

南無阿弥陀佛

2012年10月06日
鹿児島県肝属郡 玄忠寺 石原正法