ら く だ
古典落語に『らくだ』という噺があります。「らくだの卯の助」という二つ名をもつ町内のゴロツキが、ある日フグにあたって死んでしまい、そのお弔いをするというものがたりです。らくだはお世辞にも善人とはいえない、町内一の嫌われ者です。死んで悲しむ人は一人もいません。お弔いといっても、落語のことですからかなりハチャメチャで、死の尊厳など微塵もなく、逆に痛快なほどです。
およそ法話とはほど遠い噺ですが、気になるセリフが一つあります。
らくだの訃報を聞いた、くず屋(廃品回収屋)さんのセリフ
「人間心配せんでもよろしいなぁ。どんな人間でも、死ねるもんでんなぁ。」
このセリフは普通我々の言うこととは全く逆です。普通なら「心配しなくても、死ぬわけじゃない」と言うことはありますが、「心配しなくても死ねる」とはなんとも不思議な言葉です。
やや飛躍した解釈かもしれませんが、私はこの言葉に、浄土宗に通じるものを感じます。
我が浄土宗の旨とするところは、「お念仏を唱えて極楽浄土に往生すること」です。
極楽とは死後の世界であり、往生の望みが叶うのは命終わる時です。
しかし必ずしも死後だけが、救済されるのではありません。
もし浄土宗が死後の救いのみを説く宗旨であるならば、極端な話ですが、念仏を唱えた後で自害した方がいいことになってしまいます。
法然上人がお示しくださった念仏の教えは、極楽に往くための教えであり、且つ極楽を信じて生きる教え、といえるのではないかと思います。
極楽浄土という世界があって、仏さまや今は亡き方々が見守ってくれていると信じればこそ、この世のあらゆる困難や挫折にも、孤独にならずにすむでしょう。
「どんな人間でも」必ず訪れる死を、「阿弥陀仏に救い取られる」「亡き方々と再会できる」と信じればこそ、その瞬間を恐れずに迎えることができるでしょう。
もう一つ、その人が精一杯に、極楽にいけるような生き方をしたならば、残された方々も「ああ、あの人は極楽に往かれたのだ」と、迷うことなく見送ることもできるでしょう。
一人の救いが、みんなの救いになる。これがお念仏の、最大の利益でありましょう。
お念仏の中に、「心配せんでもよろしいなぁ」という日々がおくれますならば、なによりのことと存じます。
最後に、生前この『らくだ』を十八番にしていた、六代目笑福亭松鶴の辞世の句を紹介いたします。
「煩悩を 振り分けにして 西の旅」
2012年09月02日
三重県松阪市 安楽寺 佐藤順晋