子供との親縁の中で

 先日、ある方から唾を吐かれるという目に会いました。その方と向かいあって、私の方から一方的にお話をしていました。その方は笑顔で応答して下さるので、私の方もだんだん嬉しくなりどんどん話が弾みます。そんなとき、その方のお顔が急に変化していきました。まぶたを閉じ、口が少し開いたと思ったその瞬間、「くしゅん」とくしゃみをされました。それも口を手で塞ぐこともなく。  その真ん前に私がいます。当然、口から放たれた露が私の顔や身体めがけてやってきました。その時なぜか怒りの気持ちはありませんただ喜びの気持ちを込めて、

「もう一発くらい出るんじゃない?」

とニコニコとその前にいる生後数ヶ月の娘に語りかけていました。

 普段の生活の中でよくある抱かれた赤ん坊と、抱くものの光景です。ただその時の私はしばらく考えこんでしまいました。なぜ怒りの感情は起こらないのか?
 怒りの感情(煩悩)を静めるという事に大いに関心のある私には、笑われそうなこのくしゃみとの遭遇に、問題のヒントがあるような気がしてなりません。

 一つ思うところがあります。「仏さまの光に浴した方の気持ちってこんな感じなのかなー?」と、光に触れる仮体験をしたように感じました。あくまでも仮ですよ。普段だったら怒るはずのこのクシャミに、喜びをもって迎えいれる事ができる。
 おそらく、他人に目の前で同じようにくしゃみをされた場合、温かな感情でそのくしゃみを受け入れる事はできないでしょう。同じくしゃみという現象で、同じような露と風が飛来してくるという結果です。それなのに、娘と他人のくしゃみによる、私の心の姿は正反対です。もし我が子に対する心の姿で世界を見られたら、他人を思いやる事ができたなら、世界は平和でなくとも、心は平和だろうなとそんな事を思わされました。このように子供を授かってから、色々な事を違う視点で考えるようになりました。それはおそらく、出産に立ち会ったあの日から始まったように思います。娘を出産したばかりの妻に冗談交じりでこう尋ねました。

「あと二三人産める?」

 その答えは私の予想に反するものでした。
 長時間の陣痛と壮絶な痛みの直後です。陣痛の際は、「早く出てきて!」と疲れと痛みをこらえた何とも言えない表情で言っていました。
そんな妻が誕生したばかりの子を抱きながら、私の問いに、母の笑顔で、

「任せといて!」

 と力強い返事。大きな衝撃を受けました。二三人子を授かるという事は、あの痛みをあと二三回経験しないといけないのですが、どうやらあの痛みを再度経験してもいいようです。壮絶な出産に立ち会った私には信じられない一言でした。しかし、大きな気付きをもたらしてくれました。

 死の痛みと恐怖を乗り越えるヒントはここにあるのではないだろうか。出産はその先に我が子を授かるという喜びがあるから、あの痛みを受け入れる事ができる。であるならば、死というのも、お慕いする方がいる世界に往生するという希望があるから、痛みはあるが、恐怖ではなく、喜びとして受け入れていく事ができるのではないだろうか。そんな妄想、いや光想を病院の待合室で密かにしていました。どうやら、お念仏の教えと子供との関係をこの時から対比して考えるようになったようです。

 私が子供との親縁の中で生じた光想や先の心の平和がお念仏の生活の中で得られる事を、跡見学園の創設者で、熱心な念仏者であった跡見花蹊さんが和歌ももって証明し吐露して下さっています。最後に紹介させていただき、共に味わいお念仏実践の糧にしていきたいと思います。

 あたたかき親の光に抱かれて こころのどかにわずらうわれは


2012年08月04日
東京都台東区長圓寺 金田昭教