自分にふさわしい修行―せんたくの自由?

 7月となり節電の夏が始まりました。関西在住の私は、電力不足の現実をひしひしと感じています。会社や個人が、それぞれにできる範囲で節電に取り組んでいます。近所のスーパーも朝7時に開店し、涼しい朝のうちに買い物を済ませるという節電策を促しています。

 さて、スーパーについて興味深い話を耳にしました。「スーパーに買い物に来る人の7~8割は、まだメニューを決めていない。スーパーの陳列棚を見て、あれこれ迷いながら食材を選ぶ。店内を見終わる頃に、ようやくメニューが決まる」というものでした。なるほど、これはメニューだけの話ではなく、私たちの生き方全般にも当てはまるのではないでしょうか。さして確固たる目的もなく、あてもなくフラフラ。行き当たりばったりで選んだり、捨てたり。私たちの取捨選択などは、その程度のものではないでしょうか。

 それに対して、信仰生活においては迷う必要はありません。私たちが修める行は、お念仏ただ一つです。しかも、お念仏は阿弥陀さまが選んでくださった修行です。私たちがどんな修行をすべきか迷うまでもなく、あらかじめ阿弥陀さまが選んでくださっているのです。極楽浄土という目的地が決まっていて、あらかじめ選ばれたお念仏をする。まったく迷う必要がないのです。むしろ、迷って余計なものを差し挟むべきではありません。お念仏だけが選ばれた修行なのです。

 先日、新聞に「仏典に学ぶ」という記事がありました。鎌倉時代の僧、無住法師『沙石集』についての解説でしたが、前半部分が気になりましたので引用します。

(前略)
 旧仏教は古い価値観を墨守し、新仏教を阻止しようとする悪玉のように見られた。新仏教が念仏や坐禅のような一つの行を専修することを説き実践しやすいのに対して、旧仏教がさまざまな行を組み合わせた兼修を説くのは、一般民衆には不可能な貴族的な立場であり、一つの行に専念できない不徹底な態度と考えられた。

 だが、そうであろうか。専修念仏の立場では念仏以外の行は役に立たないとして、すべて否定する。しかし、人により適正はさまざまで、念仏を好む人もいれば、坐禅を好む人もいる。いろいろ試み、自分にふさわしいやり方を採用してかまわないはずだ。最初から選択肢がなく、唯一の行しか認めないというのは、あまりに偏狭ではないか。
(後略)

 念仏や坐禅に限定せず、いろいろな修行の中から自分にあったものを選んでも良いのでは? という主張です。お念仏にご縁のある方でも、実はこのような見解をお持ちの方が多いのではないでしょうか。個性の時代・自由の時代と言われる昨今、何もかもに対して個人それぞれの判断・選択が尊重されています。そんな時代では仏道を究める修行でさえも、何を選ぶかは人それぞれ、人間が選ぶのが当たり前という考えになったとしても無理はありません。個人の自由・権利の名のもと、知らず知らずのうちに仏さまの領域にまで私たちは侵入しようとしています。しかし、それは厳に慎むべきであると気づかねばなりません。

 法然上人がお示しくださったお念仏のみ教えは、前述の通り、阿弥陀さまのお選びです。他の一切の修行を選び捨て、お念仏だけをお選びになられた。これを「選択(せんちゃく)」と申します。生きながら悟りを目指すような厳しい修行は、今の私たちには難しい。そのみ教えは素晴らしいものだが、現実の私たちには実践できない。それを百も承知の阿弥陀さまが、慈悲のみ心から「念仏ならできるであろう」としてお念仏を選択(せんちゃく)してくださったのです。決して「他の行が無理だから、仕方なく念仏」という訳ではありません。煩悩にまみれて罪を重ねる私たちを見捨てず、「念仏で大丈夫。必ず救う。だから私の名前を呼んでおくれ。南無阿弥陀仏と称えよ」と阿弥陀さまが私たちに思いを掛け続けておられます。私たちのお念仏を待ちに待ってくださっています。その有り難さを受け止め、ただ一向にお念仏する。阿弥陀さまの期待に応えるよう、共にお念仏に励みましょう。

 お念仏を称えていると、あっと言う間に一日が過ぎた。そんな節電生活が良いと思いませんか。節電の夏、どうぞお身体ご自愛ください。

合掌

2012年07月05日
奈良県天理市 善福寺 桂 浄薫