佛教徒として 念佛者として
4月8日は佛教を開かれたお釈迦様のお誕生日である、「花まつり」です。お釈迦様がこの世にお出ましになられてから約2500年余り、佛教は脈々と伝わり広まってきました。佛教とは、
・佛様(お釈迦様)が説かれたみ教え
・わたしが佛と成るためのみ教え
を意味します。
しかし現状を鑑みると、「ご先祖様のためのもの」「死んでからのこと」と考えたり、佛像を「美術品」として捉えたりする方が多いのでは、と感じます。
佛教は、過去世と現世(この世)と未来世を視野に入れたみ教えです。そのみ教えと照らし合わせ、自分の生き方(現世)、行く末(未来世)を考えられるのが、佛教の真骨頂なのです。
例えば佛教が勧める善業(善い行い)の一つに、「不悪口(ふあっく)」があります。他人に対し不快感を与える類の言葉を言わない、という行いですが、これをご覧になってから一週間、この不悪口を実践してみませんか。私も実践します―(以下は実践後にお読み頂ければ幸いです)
さて、不悪口を実践してみていかがだったでしょうか?ここでお伝えしたかったのは、できるかできないかの前に、まず「意識」して頂くことでした。この意識こそが「戒」(善いことを積極的に行い、悪いことをできるだけ慎む)をたもって生きて行くという、佛教徒としての生活規範なのです。
私たちは生きていると、悪口を言いたくなったり、実際に口に出したりすることがあります。報道されるニュースに対し、車の運転中に歩行者に対し(逆の立場もしかり)、家庭や職場や学校で。意識してみて気づくことは、「戒」をたもつことはなかなか難しいということです。
この気づきこそが佛教的生き方の「第一歩」です。「千里の道も一歩から」と言うように、まず踏み出してみることが大切です。
不悪口以外にも、不偸盗(ふちゅうとう=人のものを盗まない)、不瞋恚(ふしんい=怒り、憎しみの気持ちをもたない)などの「戒」を意識して生活する。もし戒をたもてなかったときは、佛様に向って懺悔(さんげ)する。つまり素直に反省し「南無阿弥陀佛」と声に出してお称えする。この繰り返しこそ佛教徒としての生き方であり、念佛者としての生き方です。
そうして、お釈迦様がこの世にお出ましになられた真の目的であり、法然上人がお釈迦様の真意をそのままにお示し下された「お念佛」のみ教えにより、やがては煩悩に煩い悩まされる世界から離れていくことができるのです。
「お念佛」とは阿弥陀佛の御名を呼ぶ「修行」です。阿弥陀様は、戒一つをなかなかたもてない「私」を、極楽浄土という世界に迎え取るために「佛」と成って下されたお方です。
つまり私たちのために
・成佛され
・極楽浄土という場所を構え
・「南無阿弥陀佛」と称えるお念佛の修行に、この世を離れていくための功徳(善い結果をもたらす力)を込め
常に「私の名を呼んでくれ。呼べば必ず迎え導く」と呼びかけ続けて下さる佛様です。
行(実践)は、自分の気持ちを奮い立たせ、「自信(自ら信じる心)」を養います。称え続けていく中で、「自信」が段々と深まっていきます。着実に地道に、劇的に変わらずとも飽かずめげず、「戒」をたもとうと意識し、懺悔の思いを込めて「南無阿弥陀佛」とお称えする。その繰り返しの末、命終わる間際には、私を救わんと待ち焦がれて下さっている阿弥陀佛が、必ず必ず御自ら迎えに来て下さるのです。
「戒」をたもとうと意識し、できなかったときは懺悔の思いでお念佛を称え、またたもとうと前を向いて生きていく。
無理を重ねる必要はありません。かえって自己嫌悪に陥り、意識できなくなってしまいかねません。とはいえ開き直らずに、できるだけ「戒」を意識することが佛教的実践生活です。
後の世には必ず「希望」をもたらしてくれる「お念佛」と、今を生きる上の定点となる「戒」を意識し実践する生活を、この春始めてみませんか。
南無阿弥陀佛
2012年04月04日
兵庫教区浄土宗青年会 一乗寺 村田光融