未来を見つめ、今を生きる

ボクらは、自然科学に基づいた教育を受けてきた。
科学的合理的な考え方を叩き込まれて育ってきた。

遥か西の彼方に極楽浄土がある、という。
ボクらは、どうやって想像すればいいのだろう?
科学では、あるともないとも証明できないのに。

人智を超越した阿弥陀佛がいる、という。
ボクらは、どうやって想像すればいいのだろう?
科学は、いるともいないとも証明できないのに。



目に見えないものに畏敬の念を抱く。
かつては当たり前のことだったのに。
科学が畏敬の念を抱かせにくくした。
科学的でないものを訝しませてきた。

でも科学は全知全能じゃない。
すべての病気を治すことも出来ない。
老いることを止めることも出来ない。
死なないようにすることも出来ない。


極楽浄土も阿弥陀佛も目に見えない。
ボクらの想像を遥かに超越している。
科学で説明も証明も出来る訳がない。

極楽浄土もあるし阿弥陀佛も存在する。
お釈迦さまのお経を信じるかどうかだ。
善導大師も法然上人も信じてこられた。
ボクらが信じられるかどうかの問題だ。



ボクらは毎日を精一杯に生きてきている。
幸せになりたいと願って生きてきている。

でも本当の幸せって何だろう?
お金に恵まれることだろうか?
健康に恵まれることだろうか?
家族に恵まれることだろうか?

お金も健康も家族も幸せを感じさせてくれる。
でもいつまでもずっと恵まれるとは限らない。
一瞬にして瓦解してしまう幸福感でしかない。

それじゃボクらは何を信じればいいのだろう?


お釈迦さまがおっしゃった。
ボクらの世界の以外にも世界がある、と。
地獄と餓鬼と畜生という世界がある、と。
修羅と人間と天人という世界もある、と。
ボクらは六つの世界を輪廻している、と。
苦しく辛い世界を生死輪廻している、と。

信仰とは仰せを信じること。
ボクはお釈迦さまの仰せを信じる。


お釈迦さまがおっしゃった。
人間を遥かに超越した存在がいる、と。
生死も輪廻も解脱した存在がいる、と。
ボクらをお救いくださる佛がいる、と。
ボクらをお迎えくださる佛がいる、と。
極楽浄土の阿弥陀佛がそうなのだ、と。

信仰とは仰せを信じること。
ボクはお釈迦さまの仰せを信じる。


お釈迦さまがおっしゃった。
お念佛は阿弥陀佛の本願なのだ、と。
だからお念佛で極楽往生なのだ、と。
二度と生死も輪廻も繰り返さぬ、と。
先に往きし者が後を迎えて待つ、と。
南無阿弥陀佛とお念佛を称えよ、と。

信仰とは仰せを信じること。
ボクはお釈迦さまの仰せを信じる。


ボクらは、ここに生まれてくる前は、どこにいたのか?
ボクらは、ここに生まれてきたのは、何のためなのか?
ボクらは、ここで命尽きて死んだら、どこへゆくのか?

科学は、なんにも教えてくれなかった。
だけどお釈迦さまは教えてくださった。

ボクらは、ここに生まれてくる前は、六道を輪廻していた、と。
ボクらは、ここに生まれてきたのは、お念佛を称えるため、と。
ボクらは、ここで命尽きて死んだら、極楽へ往生を遂げる、と。

信仰とは仰せを信じること。
ボクはお釈迦さまの仰せを信じる。


ボクらは諸行無常の世界に生きている。
ボクらの命は露の身のようにはかない。
ボクらの願う幸せは夢幻のようなもの。
ボクらの抱く幸せは永遠には続かない。
ボクらは苦しく辛い世界に生きている。

戦争や革命や大恐慌が起きたとしたら・・・
天災地変で自然の猛威が襲ってきたら・・・
一瞬にして全てを失うということも有り得る。

それでもボクは一生懸命に前を向いてゆける。
お釈迦さまの仰せを信じてゆくと決めたから。
南無阿弥陀佛とお念佛を称えてゆくのだから。
極楽往生を遂げる未来が待っているのだから。

だからボクは安穏な心境で精一杯に生きられる。
たとえ何があろうともお念佛を称えてゆくから。

南無阿弥陀佛

2012年03月16日
浄土宗広島教区青年会 妙慶院 加用雅信