お念佛申し申し慎ましく生きましょう

 間もなくあの大震災から一周忌の時を迎えようとしています。改めて尊い命をはからずも落とされてしまった多くの方々が、阿弥陀様の御許にお迎え頂く事を願ってお念佛をご廻向させて頂きます。

 「ひと皆あぢきなきことを述べて、聊(いささ)か心の濁りもうすらぐかとみし程に、月日かさなり、年越しかば、後は、言の葉にかけていひ出づる人だに無し。」

 これは鴨長明が『方丈記』の中で、元暦の大地震について記した一節です。『方丈記』は、建暦二年、法然上人ご往生のその年に書かれたもので、長明は上人とほぼ同時代を生きた人です。長明は大災害を経た直後の人々の姿を、皆この世の「無常」について語り、欲を満足させることの無意味さも思い知ったからでしょうか、心の濁りも薄らいだかのように見えたと記しています。
 ところが、月日が経つにつれ、また元に戻ってしまい、誰もそのようなことを口に出す人がいなくなってしまったと言うのです。ここに人間の愚かさを見る気が致します。
 凡夫の私たちは、強烈に味わったはずの「無常」さえ、忘れてしまう。何と恐ろしいことでしょうか。また何も無かったかのように日常に戻ってしまうことは、昨年の大震災から何も学ばなかったことになりはしないでしょうか。幸いにして命を落とさずに済んだ私たちは、この世が「無常」である事を肝に銘じ、また次の世代を担う人たちに伝えていかねばならないと思うのです。

 法然上人は「人の死の縁は かねて思うにも叶い候わず」と仰います。思い描く通りの臨終が迎えられるとは限らないのだということです。震災物故者の誰しもが「まさかこんな風に最期の時がやって来ようとは」と思われたに違いありません。

 念佛信仰の篤かった小林一茶の句に、「死に支度 いたせいたせと桜かな」とありますが、大震災の日の私は、恥ずかしながら全く「死に支度」の出来ていない私でした。頭に浮かんだことは、身の安全とこの世への執着ばかりでした。人には「無常」を説きながら、今思うと「今の快適な生活を失いたくない。」その一心だけで行動していたというのが本音です。

 浄土宗が拠り所としているお経典のひとつ、佛説『無量寿経』には、

 「田あれば田を憂う、宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物また共にこれを憂う。」また、「田なければまた憂えて、田あらんことを欲し、宅なければまた憂えて、宅あらんことを欲す。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければ、また憂えてこれあらんことを欲す。」

とのお釈迦様のお示しがあります。

 自分の持っているものを失うのではないかと心揺さぶられ、無ければ無いで、欲しい欲しいと心揺らされる。また失うという時には、持っている物が多ければ多いほど、失う苦しみは大きくなります。そもそも私たちはこれまで、快適さを求めるあまり、多くを持ちすぎてしまったのかも知れません。何かを手に入れるということは、実は同時に「失う苦しみ」も一緒に手に入れるということなのです。

 だからこそお釈迦様はこの世の「無常」なることを説き、「この仮の世に執着し、しがみ付いていてはならぬ」とお示しくださったのではないでしょうか。手に入れては失う「苦」の繰り返しではなく、二度と失う苦しみも、別れの悲しみも、病や老いの苦しみも、味わうことのない常楽(じょうらく)の「極楽浄土」を目指して「南無阿弥陀佛」と称えて行け。苦の繰り返しである「六道輪廻」は「もうこれで最後にしなさい。」というのがお釈迦様の仰りたかったことに相異ないのです。
 阿弥陀様もまた、知らず知らず佛の教えに背を向け、「苦」の繰り返しをし続ける私たちを憐れと思し召して、「呼べば必ず極楽に救い取る。」と、御自身の成佛までも賭けてお誓い下さり、私たちのために「極楽浄土」をご用意下さっています。

 この世は、いずれはお暇頂く場所と心得て、往生のその時を夢見て、お念佛申し申し、慎ましく生きさせて頂きましょう。

南無阿弥陀佛

2012年03月01日
千葉教区浄土宗青年会 医王寺 八木英哉