滅後の邪義を防がんがために

 今から800年前の1月23日。法然上人はご遺言の一枚起請文をしたためられ、「滅後の邪義を防がんがために所存を記し終わんぬ」と結ばれました。邪義とは、浄土宗の中で法然上人の念佛の教えとは似ても似つかない間違った教えのことです。
 80年の御生涯の締めくくりは、なんとしても正しい念佛の教えを伝え、間違った教えを防ぎたい、その一心で一枚起請文を残す、とまでおっしゃいます。
 法然上人が臨終間際までご心配された邪義とはどういうものでしょう?主なものを3つ順に見ていきます。

邪義①  【天地の根本根源】【宇宙の大生命】【命の親様】などが阿弥陀様

 阿弥陀様はこの世の創造主ではありません。我々の生殺与奪の権も持ちません。宇宙のような阿弥陀様と一体になっていく佛でもありません。山も川も草も木も阿弥陀様の変化した姿ではありません。また私たちの命の源をさかのぼると、阿弥陀様にたどり着くという佛でもありません。
まして先の戦争で天皇=阿弥陀様と誤ってとらえられたことは論外です。
 阿弥陀様は、もとは人間で、やがて出家され「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」と名乗られました。世自在王佛(せじざいおうぶつ)というお師匠様の前で、全ての衆生を救いたいという願いをおこし、210億もの他の佛様のお浄土から、最善なるものだけを取捨選択されます。五劫の間考えめぐらせて、48の誓願をたてました。
 自らの成佛、極楽浄土の建立、そして念佛だけで極楽往生を遂げさせるために兆歳永劫(ちょうさいようごう)の難行苦行を修め、ついに48の誓願を「本願」として完成し、「阿弥陀」という佛様に成られたのです。現在は西方の極楽浄土でわが名を称えたものを極楽浄土に救うと呼びかけています。これこそが無量寿経に説かれている阿弥陀様です。

邪義② 【極楽に帰る】【極楽は私たちのふるさと】

 私たちは始まりの分からない昔から六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)の世界を輪廻し続けている存在です。前世での善業の結果、現世は人として生まれ変わった私たちですが、死ねばまた、自業自得の原則にもとづき六道のいずれかに生まれ変わるのが私たちの定めです。ですから正確には帰る場所もふるさとも、六道のいずれかということになります。
 阿弥陀様といえども因果応報の理を変えることはできません。六道の世界では決して救われないからこそ、阿弥陀様は西方に極楽浄土を建立され、そこに救い取って成佛させると本願にお約束されました。私たちは阿弥陀様の本願によってようやく生死輪廻の鎖を断ち切る機会を得て、この度初めて極楽に往生させて頂くのです。

邪義③ 【お蔭様や生かされていることに感謝するための念佛】

 私たちは阿弥陀様に生かされているのではありません。もし仮にそのような働きがあったとしても平和で元気な時は実感できますが、この度の大震災や死を目の前にした時には全くの無力です。元気な人は生かされて、津波で亡くなった人はお蔭様で殺されたのかと言われればそれまでです。残念ながらこの世は、どこまでいっても自業自得と因果応報の理で移り変わっている無常の娑婆です。
 必ず来る死に目をそむけ、現世を肯定するように今生きていることだけを喜び、生かされているお蔭様に感謝をすることこそが南無阿弥陀佛の念佛である、というのは大変な間違いです。例えるなら、つないだ船に棹をさして漕ぎ出すようなものです。
 阿弥陀様が一切衆生を救うためにお誓い下さった本願の念佛は、この世での感謝ではなく、後の世に極楽往生を目指して「助け給え」と称えることだけです。

 邪義は信じた人、広めた人、聞いた人、それら全てが極楽に往生できませんから、法然上人は臨終間際までご心配されました。
 法然上人が命がけで残して下さった念佛の教えを正しく理解して、一枚起請文にお示しのとおり「往生極楽のために南無阿弥陀佛と申す」ことだけが、
801回忌以降なすべき私たちの勤めなのです。

南無阿弥陀佛

2012年01月16日
栃木教区浄土宗青年会 法善寺 吉水智教