秋彼岸
極楽浄土へ想いをかける時
私の住む信州松本の寺の前には、田んぼが広がり、そこに生える稲の穂が実って、だんだんと頭を下げて、黄色く色づいてきました。辺りは、とんぼが数多く飛び、風も涼しくなり、すっかり秋めいてきました。もうすぐ秋彼岸。お墓参りなどに行かれるという方が多いのではないでしょうか。ではお彼岸とは、どのような佛教行事でしょうか。
彼岸とは、古代インドの言葉であるサンスクリット語の「パーラミタ―」を漢字に音写したものを「波羅蜜多」といい、それを訳して、「到彼岸」(彼岸に到る)ということからきています。
佛教では、私たちが住んでいる、この世界のことを「娑婆世界」といい、多くの苦しみを耐え忍ぶ世界とされ、「此岸(=しがん)」(こちら側の岸の意)ともいわれます。
それに対し、彼岸は「彼の岸」、すなわち、あちら側の岸のことをいい、悟りの世界、阿弥陀様のいらっしゃる極楽浄土のことをいいます。
迷い苦しみの多い「此岸」から、一切の苦しみがない、楽を極めた「彼岸」へと到ることが、「到彼岸」であり、そのために心を落ち着けて、普段より一層佛道修行に励むのが、お彼岸という佛教行事です。
日本ではお彼岸の期間を、春は春分の日、秋は秋分の日を中日として、前後三日間の、あわせて一週間を指します。
春分の日、秋分の日はともに、太陽が真東から出て、真西に沈む日です。その太陽が沈む西の彼方にある極楽浄土へ想いをかけて、お念佛を称えることが、私たちにとって大切な佛道修行なのです。
私たちがいる「此岸」と阿弥陀様・ご先祖様がいる「彼岸」とは、今は別々の世界ですが、私たちもやがて命終える時には、彼岸の世界である極楽浄土へ往生させていただき、そこで阿弥陀様、そしてご先祖様に会うことができるのです。
法然上人は、御遺訓である『一枚起請文』の中で、「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀佛と申して、うたがいなく往生するぞと思いとりて申す外には、別の仔細候わず」と説かれました。
(阿弥陀様の極楽浄土へ往生するためには、ただひたすらに「南無阿弥陀佛」とお称えするのです。少しの疑いもなく、「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めて、お称えするほかには、特に細かなことはありません。)
法然上人は、
「往生と言うは、此を捨てて彼に往き、蓮華に化生す。」
と述べられています。
つまり往生とは、阿弥陀様にお迎えいただいて、此岸を捨てて、彼岸へと往き、極楽浄土の蓮華に生まれることをいうのです。
ただ往生極楽のために、南無阿弥陀佛とお称えし、お念佛という佛道修行により一層励むのがお彼岸なのです。
今年は、地震・津波・台風と、日本各地で自然災害が起こり、甚大な被害が出て、多くの方々がお亡くなりになりました。お亡くなりになった方々に対して、私たちができることは何でしょうか?
それは、お亡くなりになった方々のために、「どうか阿弥陀様、お亡くなりになった方々をお迎え、お救いいただき、極楽浄土へと往生させてください。」との気持ちをこめて、お念佛を称え、ご廻向させていただくことです。
自分だけでなく、家族・友人・知人、さらには直接お会いしたことのない方であっても、ご縁の有る無しに関係なく、みんな全ての方が、阿弥陀様にお迎えいただき、極楽浄土へ往生して、また会うことができる。
これがお念佛の御教えのすばらしさだと思います。
どうかこの秋彼岸は、自分のため、ご先祖様のため、そして災害でお亡くなりになりました方のためにも、法然上人のお示しのままに、お念佛をお称えください。
南無阿弥陀佛
2011年09月16日
長野教区浄土宗青年会 玄向寺 荻須真尚