時間とともに薄れゆく先立った人へのおもい
『わが身の往生の為』に称えるのでなければ続かない・・・
先日、私の居るお寺のお檀家さんが、ご法事をつとめられた。33回忌の法要であったが、お施主さんの奥様が本堂内に貼り出してあった他家の「50回忌追善供養の奉納」の貼り紙を見て、「私も先日実家で50回忌の法事を勤めてまいりました。こちらのお檀家さんでもなされる方があるんですね」と言われた。意外そうな口ぶりであった。その言葉を聞いてしみじみ思った。年忌法要をなされる方もさまざまだが「33回忌」から「50回忌」まで忘れずにつとめあげる方は少なくなってきたようだ。
世代交代や、見たことも逢ったことも無い親族の供養をする等ということは、日々、目先の生活に追われる現代人には、重要度が薄くなってきているのか、はたまた、その思いすら無くなっているのか・・・。あるいは他に深い事情があるのかもしれないが。
その反面、日々の健康や病気・美容や趣味、家庭内の幸せのための行動は忘れず、欠かさず心がけている人が多いように見える。日課のウォーキングや手軽に行けるフィットネス・スポーツクラブなど毎日盛況であるし、寺の近くの沼には毎日欠かさず同じ人が釣りに来ている。病院には毎週通院する方が沢山待合室におられる。さらには、命にかかわると分かれば、酒もタバコもきっぱりと止められるという話もよく聞くところである。
誰もが自身の体や命、今日明日の幸せの為のことは忘れることなく、常に心がけることが出来るようである。(あたりまえと言われそうであるが)
檀信徒さんのお葬儀の際、遺族の方々は亡くなった身近な人の為に必死に「南無阿弥陀佛」とお称えくださる。今生に深い縁を結んだ亡きお方が、後生苦しむことなく、西方極楽浄土に往生していただきたいとの一念から、懸命にお称えになるのであろう。
その思いが、四十九日の間から1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、33回忌、50回忌まで変わらずに続けば、50回忌まで勤める方も多いのであろうか・・・?
われらが元祖大師法然上人は「南無阿弥陀佛とは別したることには思うべからず。阿弥陀ほとけ、『我を』助け給えという言葉と心得て。心にはアミダほとけ助け給えと思いて、口に南無阿弥陀佛と称えよ」と常に仰っておられる。
この私自身を、どうぞ助け給えと心に据えて、南無阿弥陀佛と称えることのみが、法然上人浄土宗正流のみ教えなのである。
先立った方がどんなに大切な方であったとしても、悲しみや辛さ、思い出さえも時間が経つと和らぎ薄らいでいく現実。「亡き人の為」と勤めるお念佛では、わが身の終わりまで常に称え続けることが出来るものであろうか・・・?
生まれれば必ず死ぬ・死ねばまた生ず。逢えば必ず別れる・別れればまた出逢うという辛く・悲しいことを際限なく繰り返し続けているのが、この娑婆(しゃば)世界である。娑婆の悲しみに迷い苦しむこの私を、この我を助け給えと心に深く刻まなければ、日々常に南無阿弥陀佛を称え続けていくのは難しいだろう。だが、常に称えることこそが、法然上人のみ教えである。
亡きお方と別れた悲しみと同じ悲しみを、あと何度も経験しなくてはならぬわが身かもしれない。大切な方がいればいる数だけ、悲しみもあらわれ来る。
「もはや今生でこの悲しみとはお別れである。次生は二度と別れない、苦しまない西方極楽浄土へと助け出されるのである」と、いま一度正しくみ教えをうけとって、「あみだホトケ『われ』を助けたまえ」と心に据えて、ナムアミダブツを常に称える者になりたいものである。
南無阿弥陀佛
2011年09月01日
茨城教区浄土宗青年会 阿彌陀寺 古矢智照