摂取不捨の誓い

 私のいるお寺は、騒がしいほど蝉の声が聞こえる山間にあります。蝉は一般的に、成虫後わずか数日でその命を終える、はかない命の代名詞的に語られます。
 対して、私たちの命はどうでしょうか。よく「生かされている命に感謝して」という表現が見受けられますが、果たしてそれは何を意味しているのでしょうか。

 「生かされている」という言葉。その裏には、他者との比較があります。「他の誰かは亡くなったが、私はまだ生きている」といった安堵感。それがあたかも「有難いこと」と認識されていることにとても違和感を覚えます。
 「生かされていることに感謝する」ことは、自分の境遇を見つめ直すために他人と比較し、「あの人よりはマシ」と、自分の不安を一時的にやわらげるためでしかありません。

 私にも思い当たることがあります。

 私は中学生の頃、ケガのために、自分で起き上がることすら人の手を借りなくてはならなくなり、その状態が数年続きました。
 それは思春期の私に、強烈な劣等感を植え付けました。そして当たり前のことを当たり前にしている周囲の人を羨み、妬み、不機嫌な毎日を過ごすことになります。
 時には、誰かの闘病記などを読み、「私はこの人に比べればマシだ」「あの人より私の方がまだ恵まれている」などと他人と比べ、根拠の無い優越感に浸ることで自らを慰めていました。

 しかし、夜中一人になると、私が私を責め立てます。

 「なぜ人を羨むのか」「人と比べたところで何になるのか」

 そんな自分を恥ずかしいと思っても、その考えを抑えることがどうしてもできません。ただただ悶々とする日々が続きました。
 やがて身体は治りましたが、自分と他人を比べ、勝っている所を探しだすことでしか、自分を安堵させることができない人間になっていました。

 そんな私が30歳を越え、お寺の務めをさせて頂くことになり、法然上人のみ教えを学ばせて頂くことになりました。法然上人のみ教えは、阿弥陀様の本願に順じたものであり、お釈迦様の真意に基づいたものです。

 阿弥陀様は摂取不捨(せっしゅふしゃ)という誓いを立てられた佛様である、とお釈迦様はお説きくださいます。
 その誓いとは、

「我が名を呼ぶものは、誰でも私(=阿弥陀佛)が放つ光明の中に摂め取って、決して見捨てない」

というものです。
 つまり、「南無阿弥陀佛」とお念佛を称えれば、称え始めたときから阿弥陀様に護られ、そしてこの世での命尽きる間際には、阿弥陀様自らが私をお迎えに来てくださり、極楽浄土で佛となるまで育て導いてくださるのです。

 私がお念佛を称える限り、阿弥陀様は私を決して見捨てない!そう約束してくださる佛様がいらっしゃる。
 そのことを信じ、南無阿弥陀佛とお称えするのが法然上人のみ教えです。
 私は言い知れ様のない力強さに、ただただ感激するばかりでした。

 とはいえ、命ある限り自分と他人を比べては一喜一憂し、つかの間の安堵感を求め続ける心が無くなる訳ではありません。
 しかしそればかりにかまけていると、本当に大事なこと、すなわち、何よりも大切な自分の命が尽きる、という避けられない現実を見ないように、考えないようにするのが私たちの性(さが)です。

 まずは、私にはそのような心がある、と自覚することから始めてみませんか。

 そして、阿弥陀様の「摂取不捨の誓い」にお応えして、ただただひたすらに「南無阿弥陀佛」とお念佛をお称えする。そうすれば、こんな私でも必ず導いてくださる、というこの上ない安堵感を得ることができます。

 お念佛を称える者にとって、いつか訪れる「死」は、終わりでも、生かされなかったわけでもありません。命尽きる日=極楽浄土へ参らせて頂ける日、なのです。
 元気に生きている間に、「私」の行き先をしっかりと定め、この世を過ごす生活をお勧めいたします。

南無阿弥陀佛

2011年08月16日
兵庫教区浄土宗青年会 一乗寺 村田光融