集まり散じて人は変われど

 長い間会わずにいても、会ったその瞬間に時間が巻き戻され、まるで離れていた数年が無かったかのように、昨日の別れ際と同じ笑顔で話し始めてしまう。誰にとっても青春時代を共に過ごしたかけがえのない仲間たちというのは、そんな存在なのだろうと思います。
 私にとっては大学時代の仲間たちがまさにそれで、卒業してそれぞれの分野へと進んだ後も数年に一度、思い出したように連絡を取り合う旧友が数名います。

 そんな中、あれだけ気の置けない間柄だったのに、卒業してからなぜか疎遠になってしまった友人がいました。恐らくタイミングが合わなかったのでしょう。たまに人づてに消息は知るものの、お互い会うこともなく、やがて風の便りも聞こえなくなり、いつの間にか20年以上も経ってしまいました。
 先日、ふとしたきっかけでその友人が少し前に亡くなったことを知りました。
いえ、連絡先は以前から知っていたのです。ただ、20年以上も疎遠にしていた気恥ずかしさもあり、何か面白い話題と一緒に連絡しようとしているうちに、徒(いたずら)に時間が過ぎていました。他の友人の結婚という、彼が聞いたら喜びそうな話題を伝えようとした時には、すでに彼はこの世を去った後だったのです。
 ショックでした。

 そのうち連絡を取ることもあるだろうと気楽に考えているうちに彼は亡くなってしまった。どうしてもっと早く連絡しなかったのだろう。後悔ばかりが残ります。
 爾来(じらい)、私はひとり阿弥陀様に向かい、彼の廻向をしています。ひたすらにお念佛をお称えしながら、ふと、「彼は往生できたのだろうか」と考えてしまいます。
 残念ながら彼がお念佛をお称えしている姿を、私は見たことがないのです。もしかしたら彼は、私が僧侶になったことすら知らないのかもしれません。彼がこの世にいるうちであれば、共にお念佛をお称えする機会もあったであろうに、それすらできないまま、この世での彼との縁は断たれてしまいました。更に後悔が募ります。

 しかし、法然上人は遥か800年の昔から、そんな私の心配をまるで見通しておられたかのように次のご法語を残してくださっています。
すなわち、

「先立たれた方のためにお念佛をご廻向すれば、阿弥陀様は光を放って、亡き人の苦しみを除き去り、極楽浄土へと導いてくださるのです。」

と。

 何ともありがたい。彼とのこの世での縁は断たれてしまいましたが、私がお念佛を彼のために廻向すれば、阿弥陀様は彼のことを必ず極楽浄土へと導いてくださる。お念佛をお称えする声に、さらに力が入ります。
もちろん、普段から自分の、そして縁ある方々の極楽往生のために、お念佛をお称えしていますが、また一つお念佛で貴い縁ができました。

「阿弥陀様、どうか彼を極楽浄土に往生させてください」と、お念佛を廻向することで、彼と私の時を超えた確かな縁は、阿弥陀様が必ず結んでくださるのです。

 今日も私はひとり、阿弥陀様に向かい彼のため自分のため、お念佛をお称えします。いつか極楽浄土の蓮の台の上で彼と再会することを想いながら。
 そして再会した時に、まるで離れていた数十年が無かったかのように、昨日の別れ際と同じ笑顔で話し始めることを想いながら。

南無阿弥陀佛

2011年08月01日
群馬教区浄土宗青年会 哀愍寺 新井直人