信仰とは日々進行するもの

 先日、東日本大震災から3ヶ月経った石巻を訪れました。一面津波に破壊された景色と、強烈な潮のにおい。瓦礫と泥をすくい取るなか、時折見つかる手紙やアルバム。確かにここには多くの人の暮らしがあったのです。この景色とにおいを、私は一生忘れることはないでしょう。つくづく、この世は「娑婆」であると。
 至心に南無阿弥陀佛。

 「娑婆」とは、「忍土」という意味です。つまり、どんなに辛く悲しいことがあろうとも、ただ堪え忍ぶしか術がない世界だということ。そしてひとたび無常の風吹けば、この身は朽ち果てて、魂はひとり旅の空に迷うばかり。
 私たちはこのような世界を生まれ変わり死に変わり、めぐりながら今日に至っているのです。そしてこの生き死にの繰り返しから抜け出せないから恐ろしいのです。

 だからこそ阿弥陀如来という佛さまは、こんな私たちを「救わずにはおれない」と、いつでも手を差し伸べてくださっております。
 今、この時も。

 「我が名を呼べ。『南無阿弥陀佛』と称えよ。心から救われたいと願って我が名を呼ぶ者よ。命終わるその時、我みずから迎えに行って、必ず西方極楽浄土へと救い摂るぞ」

 「南無阿弥陀佛」。このお念佛のみ教えを命がけでお伝えくださったのが、浄土宗の宗祖・法然上人です。法然上人は次のようにおっしゃいます。

 「浄土門というは、この娑婆世界を厭い捨てて、急ぎて極楽に生まるるなり」

 まさに浄土宗の教えは、この「娑婆」をこの身この世かぎりと厭い捨てて、極楽に救っていただくものです。その為には、阿弥陀さまの仰せのままにお念佛申すだけなのです。

 しかし問題は、お念佛の信仰に飛び込めるかどうか。阿弥陀さまなんて本当にいるのか…極楽浄土なんて…、人間の迷いには限りがありません。ですが、迷いながらも進むことによって開かれる世界があります。

 ある大先輩の上人の思い出ですが、私にとって忘れられないお話しがあります。それは、若き日の上人が僧侶になるための修行に入られた時のことです。

 弱冠二十歳そこそこの若き青年。阿弥陀さまの救いを心から信じることができないと悩まれたそうです。疑念や迷いが胸を苦しめます。こんな迷いを抱えたまま修行を終え、いっぱしの僧侶となってはいけないと真剣に思われました。ついには修行を止めて山を下りようと、御前(ごぜん)さま(=本山の住職)に心の内を申し上げたのです。

 すると御前さまは、「なるほど、あなたの迷いは分かりました。しかし、『信仰』とは、日々『進行』するものです。今はまだ分からなくとも、そのまま進みなさい。必ず佛さまの仰せを信じることができますよ」とおっしゃいました。
 悩み迷いながらでもよいのか、こんな私でもよいのか、熱き想いが込み上げてきたそうです。そして今、自分が僧侶でいられるのも、このお言葉のおかげであると、お話し下さいました。

 「信仰とは、日々進行するもの」。迷いながらも真剣に佛さまと向き合うことで導かれる世界があります。一声一声のお念佛によって深まる信仰の世界があります。

 どうか共々にお念佛をお称えしてまいりましょう。

南無阿弥陀佛

2011年07月01日
東京教区浄土宗青年会 栄閑院 宮入良光