つねに 念佛の行者は いかようにか 思い候うべきや

お念佛の信仰を頂く我々は、日頃どのような思いでいるべきでしょうか

 もしかしたら、今あなたは「苦しみの世界」という現実に直面しているかもしれない。もしかしたら、その現実を目のあたりにし、動けなくなっている人を支えるために、寝る間も惜しんで自分の出来る限りの時間を送っているかもしれない。もしかしたら「飛んで行きたい」「傍についていてあげたい」気持ちはあっても、それぞれ抱えているものがあり、それがかなわない中で自分に出来るだけのことを、今その場所で行なっているかもしれない。

 我々は時に「いま私が居るこの世の中は、思い通りにならない苦しみの世界である」という現実を受け止めなければならない。佛教の言葉で言えば「娑婆世界」=「苦しみの世界」ということ。この世界では、私自身が「病気」になる事もあれば、歳を重ねれば必ず「老い」と向き合い、戸惑い・迷い・苦しむ。はからずも「事件」や「事故」や「災害」に巻き込まれることもある。ましてや、自分自身「死」の現実から逃れることは絶対に出来ない。そしてその中に生きる我々は、程度の差こそあれ、全ての人が「欲望」から離れることが出来ない、どこまでいっても自分の力では迷いの世界を抜け出ることの出来ない「凡夫(ぼんぶ)」であるということ。
 この世において絶対の安全などありえない。そして、自分の力では老、病、そして死を絶対に避けられるというすべも無い。

 ただ、これをお読み下さっているあなたが今、どんな状況にあろうとも、辛く苦しい現実を目の当たりにしようとも、「たとえどんな事があろうとも、あなたの事を決して忘れない。あなたを必ず救いとる」と誓ってくださった阿弥陀さまのみ教えに、やっとの思いで出会っているあなたである、ということも、また事実。
 現実を「受け止め」「乗り越えてゆく」ための、拠り所となるみ教え。それこそが、皆さんも既にご縁を頂いている、「お念佛」のみ教え。お念佛のみ教えとは、お釈迦様が残され、法然上人が我々に説いてくださった、南無阿弥陀仏と称えることを拠り所として生きるということ。

 もちろん、不安もある。孤独を感じることもあるかもしれない。でも、決して1人じゃない。辛くなった時、寂しくなった時、泣きたくなった時、どうしていいか分からなくなった時には、どうか思いを振り絞って阿弥陀様を思い、ナムアミダブツと称えてみて欲しい。あなたのその姿をご覧になり、声を聴き、あなたのその思いを、あなた自身を受け取って下さる存在がある。この世界には、今、その思いを同じくする多くの仲間も居る。あなたが倒れそうなとき、その背中を支え、押してくれる存在もある。それを拠り所とし、また前へ一歩踏み出せるかもしれない。真っ暗だと思っていた目の前のその先に、自分の進むべき道が見えてくるかもしれない。その教えに今、出会えているあなたであることを、どうか時に思い出していただきたい。

ある人が法然上人に尋ねた。

「お念佛の信仰を頂く我々は、日頃、どのような思いでいるべきでしょうか。」

それに対して法然上人の答えは、

「ある時には、世間が無常であると見定め、この世での寿命が、いかほどでもないと知りなさい。」
「ある時には、あなたを必ず救いとるという阿弥陀様のお誓いに思いをいたし、必ずお迎えくださいと願いなさい。」
「ある時には、この世に人として生をうけることが極めて稀であるとの道理をわきまえ、この一生を虚しく終えようとしていることを悲しみなさい。」
「ある時には、遇いがたい佛教に出会えたのだから、今、迷いの世界を離れる行を修めずして、一体いつその機会があるのだと思いなさい。」
「ある時には、いま自分自身がこの教えに出会い、極楽浄土に往生したいという願いを持つことが出来たのも、前世に積んだ善い行いのおかげかも知れない。今こそ苦しみ・迷いのこの娑婆世界を離れ、往生すべき時が来たのだ、と心強く受け止めて喜びなさい。」

 お念佛は、この苦しみの現実・至らぬこの私を見据えた上で、佛様が「これしかない」との確信のもとに残された「超現実的なみおしえ」。そしてこの私が、生死も含めた苦しみの世界を越えてゆく、唯一の手段となる「超現世的なみおしえ」です。

 苦しいときこそ、悲しいときこそ、辛いときこそ、法然上人のこのお言葉を思いながら、何をしながらでも共に一遍でも多くのナムアミダブツを称えましょう。

 震災・津波でお亡くなりになられた皆様の極楽浄土への往生を願い、
 被災された皆様の一日も早い復興を祈り、
 現場で頑張っている多くの人たち、仲間を思いつつ…

南無阿弥陀佛

2011年03月21日
埼玉教区浄土宗青年会 東源寺 押野見孝道