愚者の自覚

春立や 愚の上に又 愚にかへる  小林一茶

 立春に還暦を迎えた一茶は、これまでの歩んできた六十年の人生を振り返って、自分が愚であることを、あらためて見つめなおしています。
 世間では立春前日に「鬼は外、福は内」と声をかけ、節分の行事が行われます。鬼にめがけて豆をまき、邪鬼を追い払って、その一年の無病息災を願うのも結構ですが、季節の移り変わる節目の時期に、本当のわが身を見つめなおしてはいかがでしょうか。

 実は私たちの心にも鬼が住んでいます。それは煩悩という鬼で、たいへん住み心地が良いとみえて、なかなか豆まきなどでは追い払えず居座っています。
 平生は着飾っている私たちですが、心の奥の院を辿って行くと、「貪欲」の青鬼、「瞋恚」の赤鬼、そして「愚痴」の黒鬼が、三匹も住みついているのです。
人皆の 心の底の 奥の院 たずねてみれば 鬼が本尊

 私たちは、こんな恐ろしい煩悩の鬼たちに支配され、悪事を働かせています。それもこの世だけでなく、常に六道輪廻の世界に迷いを重ねてきた、罪悪生死の凡夫なのです。

 ところがこう言っても、「私は罪人呼ばわりされる覚えはない」、「そんな重罪など犯したことはない」と実感がわかないことでしょう。
 たしかに法律上は無罪であっても、道徳上の罪と問われると、少々疑わしくなります。まして宗教上の罪となると、叩けば塵や埃の出る身なのです。
 そっと胸に手を当ててみると、これまで身勝手な振る舞いで人を困らせたこと、口の刃で相手を傷つけたことや、悲しませたことなどが思い浮かぶはずです。
 だから皆、佛様の目から見れば、罪悪の凡夫なのです。けれども日頃はそこに気づかず、また気づこうともしない私たちです。

 アルピニストの野口健さんが、「日本で過ごしていると、罪悪感や後ろめたさを覚えずにはいられなかった」と話していました。
 それは初めてのエベレスト登頂の際に、至る所に散乱していたゴミの山を目にした時でありました。白銀の世界とばかり思っていたところに、日本人の廃棄したゴミが最も多くあって、そのうえ欧州の登山家には「日本の経済は一流だけど、文化、マナーは三流だ」と非難されてしまいます。
 また野口さんが、アフガニスタンを訪問した時のことです。現地の難民キャンプの人々から、泥で濁った井戸の水を施してもらいました。この井戸水が現地では、大切な命綱であると同時に、非常に危険な水でもありました。汚染がひどく、飲んだ子供たちはコレラなどの伝染病になり、日に平均50人以上の幼い命が失われていきました。
 10年ほど前には山に雪が降り、川には水があふれていました。しかしながら先進国が排出する二酸化炭素の影響で、地球温暖化が急速にすすみ、自然環境が破壊されてきたのです。その現状に、野口さんは罪を感じたといいます。

 では、この先進国日本に住む私たちはどうでしょう。自分が罪深き「加害者」であることを自覚しているでしょうか。それさえも気づかずに善人ぶっているのではないでしょうか。

 時恰(あたか)も、法然上人800年大遠忌の節目の年。今一度、わが身を見つめたいものです。
 煩悩に引きずり回され、罪を犯さないと生きては行けない私たち。こんなわが身であることをまず信じることが、「愚者の自覚」です。
 ここを頂いてはじめて、大慈悲の阿弥陀様を心から信じ、「どうか愚かな私を救って下さい」のお念佛を申すことができるのです。

南無阿弥陀佛

2011年02月01日
福岡教区浄土宗青年会 生往寺 安永宏史