ご恩に報いて
「雪の道 後から行くは ふところ手」平成23年のお正月を迎えて、早くも半月が経ちましたが、昨年末からこのお正月にかけては、多くの地域が記録的な豪雪に見舞われました。この一首も、そんな大雪の中で詠まれたものでしょうか。
一晩中雪が降り続いた翌朝、辺りは見渡す限りの銀世界。そんな中を歩いて出掛けるのは、よほど雪に慣れた人でもない限り、大変な苦労を伴います。どこが道かも、一歩先に何があるかも分かりません。
しかし、誰か先に歩いてくれた人があったらどうでしょうか。その人がつまずいた跡、溝にはまった跡、ぶつかった跡、引き返した跡。そんな足跡を目印に、危険な道は避けながら、安心して歩を進めることができます。さらに一人、また一人と、多くの人が通るうちに、遂には大きな道となって、もはや何の不安も苦労もなく、手を懐にでも入れて悠々と目的地にたどり着くことができるようになります。
言うなれば、この一歩先も見えない一面の雪景色を、危険を冒して最初に歩いて下さったお方こそが、他ならぬ元祖法然上人でいらっしゃいました。法然上人は、誰もが間違いなく救われるみ教えを、当時何の手がかりもない中、つまずきながら、はまりながら、ぶつかりながら、必死で探し求めて下さいました。そして、遂にお念佛という一筋の道を探し当てて下さったのであります。
法然上人求道のご生涯は、嘆きの涙から始まりました。御歳9歳にして、父上の非業の死。そのいまわの際に遺された、「仇討ちはするな。この私も、そなた自身も、ひいては全ての人が救われる佛道を求めよ。」という、当時としては非常識とさえ言えるご遺言に従ってのご出家でありました。
「日本佛教の祖山」とも言われる比叡山にあって、「智慧第一の法然房」と讃えられるまでになっても、その道は見つかりません。それどころか、救われ難いご自身の姿を「愚痴の法然房」「悲しきかな悲しきかな、如何せん如何せん」と嘆かれるのでありました。
ある時には比叡山と並ぶ佛教の中心地であった奈良へ、高僧碩学(せきがく)を訪ねて道を求めますが、逆に上人の学識を讃えられるばかりで、何一つ答えを得ることはできませんでした。
遂には「嘆き嘆き」報恩蔵という経蔵に篭り、「悲しみ悲しみ」一切経という膨大な経典に向う日々を、20年近くの長きにわたって過ごされます。そして遂に、中国は唐の善導大師のご著書を通して、「南無阿弥陀佛のお念佛を称えれば、阿弥陀様のご本願によって、誰もが間違いなく西方極楽浄土へ往生することができる」というみ教えを見出され、ここに浄土宗をお開き下さいました。
法然上人が、これほどまでの悲しみ、嘆き、苦しみの末にお念佛のみ教えをお示し下さり、代々のお祖師様やご先祖様がそれをお伝え下さったからこそ、私達は今や大道となったその一本道を、安心して歩むことができるのです。
法然上人最期のお姿は、それまでのご苦労とは打って変わって、お伝記に「面色殊に鮮やかに、形容笑めるに似たり。」と伝えられています。
時に建暦二(1212)年正月(1月)二十五日午の正中、すなわち正午の事でありました。
本年正月25日は、そのご往生から満799年、すなわち800回忌のご正当に当たります。このような法然上人のご苦労を偲び、そのご恩に感謝の誠を捧げつつ、共にお念佛をお称え致しましょう。
南無阿弥陀佛
2011年01月16日
三河教区浄土宗青年会 大聖寺 山田學應