衿を正す
みなさんは、「思わず衿を正したくなること」や「この人に恥じない生き方をしよう」という出会いや思い出はありますか。私はあります。僧侶であることに苦しみ、戸惑う時に必ず立ち戻るようにしている記憶があります。そのうちの二つについて綴ってみようと思います。今から20数年前の年の瀬、私は小学3年生でした。父である師匠に連れられて檀家さんの月参りからの帰り、駅のホームに立った時のことです。階段を降りる時からずっと着けられている気配を感じてふり返ったところ、真後ろに掃除婦の方が立っていました。
真っ黒に汚れたモップをもったおばさんは、思いつめた顔で小僧の私に顔を近づけて、
「あなたは修行をして道を求めるのですか?」
と言いました。気押されながらもコクリと頷くと、おばさんは片手で私の手を獲り、もう片手でポケットから百円玉を3枚、
「これでわたしの明日の幸せを祈ってくださいませんか?」
と迫られました。
困って師匠の顔を見上げると、やや間を置いて
「私たちの浄土宗では、この世での利益や栄達を願う祈祷はしないのです。本当の心の安らぎを求めて、阿弥陀さまの極楽世界に生まれることを願って毎日お念仏をお称えしてください」
と答えました。
期待をすかされたらしいおばさんの表情は曇り加減ながら、気を取り直して「ありがとうございました」と礼儀正しく頭を下げて去って行かれました。
寸刻の出来事でしたが、幼い私には大きなショックでした。その後ずっと、果たして父僧の答えが的確であったのか、おばさんはどう思ったのか、この三百円はきっとなけなしの日当であったに違いない、おばさんはどんな生活をしていて、そして幸せになれるのだろうか、お坊さんとはなんと責任の重い仕事なのだろう…、といつまでも悶々と正解のない問いをくすぶらせて行くことになりました。
また年頃になって人並みに自分の将来を疑って周囲に冷たく接した時期もありました。
村に篤信のおじいさんがいました。朝夕お念佛される鉦の音が遠くからでも聞こえます。表で姿を見ると必ず合掌して礼拝し、笑顔であいさつをしてくださる方でした。
お寺から中学校へ通う道は、必ずそのおじいさんの家の前を通らなければなりません。ある日、私は理由もなく不機嫌でした。人とすれ違うのもイヤです。一本道。おじいさんの姿が見えました。あいさつしたくない。急いでいるフリをしようか、気づかないでいようか、と内心焦っているうちに近づいていきます。おじいさんはやっぱりやさしい笑顔で微笑みかけてくれました。しかし…。
そうです、私は暗い、生意気な顔をして無視してしまったのです。足が重く、だんだん重く、ちょうど村の真ん中にあるお地蔵さんの前、おじいさんの家が見えなくなる手前で少しふり返った時でした。
おじいさんはまだ合掌して私を見送っていてくれたのです。
たまらなく恥ずかしくなり、涙が出て仕方ありませんでした。どれだけ後悔したでしょう。こんな自分の後ろ姿を拝んでくださるとは…。私をお坊さんの卵として、仏さまの弟子として見ていてくださる、そのおじいさんの気高いやさしい姿こそ仏さまそのものでした。私は二度とそんな態度はしなくなりました。
私は寺に生まれ育ち、三十歳を過ぎて住職となり、一寺を預かる立場となりました。法然上人をはじめ尊崇する祖師方があり、本当に敬服できる先輩僧の方々・同信の仲間が居てくださいます。
それ以上に忘れられない檀家さんとの思い出や、たまたま出会った人たちに育てて頂いたのだと思います。
お布施を受ける時に唱える偈文に、
「財の施しも法(=教え)の施しも、その功徳は計り知れないものであり、さとりへ至る道がみんなに通じますように…」
というものがあります。財施をする人は行為そのものによって功徳を積まれています。
さて私は法施をできているのか。怠けてはいけないと思うのです。
南無阿弥陀佛
2011年01月01日
浄土宗奈良教区青年会 西光院 中村法秀