うけがたき人の身をうけて

 とうとう師走も半ばです。皆様にはお忙しくお過ごしのことと思います。

 いつの時代も、「いのちというものは大切である」ということは不変です。
 数年前、体内にやどる赤ちゃんの映像とともに、「生命の神秘」というタイトルのテレビ番組が放映されていました。
 その中で、生物学的には私が私の両親から生まれてくる確率は、250兆分の1だとされていました。
 あくまでも計算上での話としながらも、私が「生まれる」ということは天文学的確率であり、奇跡的に生を受けたということになります。まさに、法然さまが仰られているように『うけがたき人身をうけて』今の私があるのです。

 また法然さまは、人として生まれることの難しさを、

天上界より垂らした糸を大海の底に沈む針の穴に通そうとするようなもの

と喩えられています。目の前の針と糸でも難しいのに、天上からというのです。風も吹き雨も降ることでしょう。それほどまでに、人として生まれることは難しいのです。
 そうして今私たちは、人として有ることの難しい「いのち」を頂戴いたしました。

 しかし皆さん如何でしょうか。

 考えてみますと私たちは、ややもすると、「私は生まれるべくして生まれてきた」あるいは「今生きているのも当たり前」そう思っているのではないでしょうか。
 私たちは皆、自分で段取りをつけ、自分で準備をして生まれてくることはできません。かく言う私も同じです。日々の生活の中では、なかなか有り難いことだと気づくことの出来ない、悦ぶことの出来ない、どうしようもない私たちです。

 しかし、そんな愚かな私たちではありますが、法然さまは阿弥陀さまのご本願の御心、すなわち南無阿弥陀佛のお念佛の心を、月の光に喩えて私たちにお示し下さっておられます。

つきかげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ
(浄土宗宗歌 月かげ)

です。

 阿弥陀さまの御心を感じ、心に悦ぶことが出来、お念佛をお称え申し続けていく方であるならば、阿弥陀さまは私たちから片時も離れることなく、共に生きてくださり共に暮らして下さるのです。
 これからの人生を、「当たり前」と受け取るか、「有り難い」という心で受け取るか、それが大きな違いであり、大きな分かれ道なのです。

 日暮しにおいては、不安や苦しみ、悩み多き私たちではありますが、お念佛をお称え申し続けていく中に、明るさのある心、悦びのある心、阿弥陀さまの御心を有り難いと感じられる心にさせていただける。南無阿弥陀佛とお称え申していく中に段々と力強く、温かく実感することができるのです。
 そして、やがておとずれるであろうその時には、阿弥陀さまのお迎えを頂戴し、必ず西方極楽浄土に往生することができるのです。
 これこそが、私たちが稀有なご縁で、「うけがたき人身をうけ」た、真の目的なのです。

 どうか皆さま。
 うけがたい人の身をうけたことを悦び、あいがたきご本願にあうことが出来たこと、南無阿弥陀佛のお念佛に出会えたことを大いに悦び、共に毎日をお念佛の中に日暮させていただこうではありませんか。

 どうぞ良いお年をお迎えください。

南無阿弥陀佛

2010年12月16日
北海道第一教区浄土宗青年会 寶隆寺 寺井一哉