学び・受け止め・繋ぐ

小学4年生になる長男坊の宿題で、次のような質問を受けました。

 「仕事について家族に聞いてみよう」
 1.どんな仕事をしていますか?その仕事の内容を教えて下さい。
 2.その仕事を選んだのはいつですか?何故ですか?
 3.その仕事の楽しいところ、大変なところ、辛いところは?

 ついつい、仕事の内容はお葬式や法事…、と安易に答えてしまいそうでしたが、私達の仕事を子供にも分かるように説明するのは大変難しかったです。それと共に私達の本来の責務というものを改めて確認させられました。
 皆さんなら、どんな回答をしますか?

 先日、私は東北に法然上人の御教えをお伝えいただいた金光上人によって開かれた往生寺様(宮城県栗原市)というお寺の十夜法要にて法話をさせていただく機会に恵まれました。

 金光上人は、久寿元年(1154)筑後国石垣(現在の福岡県久留米市)のご出身で、この地にある天台宗・観音寺という寺の別当を勤められていました。
 ある時、諸用で鎌倉へ赴かれた折、同じく鎌倉で布教されていた安楽房遵西上人から法然上人の御教えを聞かされ、その御教えの素晴らしさに金光上人は衝撃を受けられます。南無阿弥陀佛とお称えすれば、極楽浄土に全ての人が救われるこんな尊い御教えがあったのかと、全てを投げ捨て、急ぎ京都・吉水の庵に馳せ参じたといいます。

 長きに亘り、法然上人の御許で勉学に勤しまれた金光上人。三祖良忠上人によれば「元祖様は、私が亡き後、もし判らない事があったならば、聖光房か金光房に尋ねなさい、とまで金光上人を賞賛されていた」と記されています。
 ある時、法然上人より念佛不毛の地である陸奥へ布教に行ってくれと請われ、たったひとり未開の地へと進まれ、初めて腰を下ろされた場所が、今の栗原市往生寺の地でありました。しばらくこの地に留まり布教されましたが、より多くの人々にお伝えせねばと、更に本州最北の地・津軽へと足を運ばれるのです。当時の津軽は、修験道が隆盛を極め、異教の徒である金光上人は、始め相手にもされず、石を投げつけられ、極寒の地で食べる物もなく、立派であったお体はみるみる痩せ衰え、血を吐きながら、命懸けの布教をなされていたといいます。

 このようなつらく厳しい状況の中、元祖様の許で共に過ごした阿波ノ介さんが訪ねて来てくれた。再会を喜び、共にお念佛をお称えするお二人。しかし、阿波ノ介さんが訪ねて来たのは、あの法然上人がご往生された事を伝える為でありました。暖かな一筋の光が差し込んだはずが、再び奈落の底に落とされる金光上人。けれども自らを奮い立たせ、より一層布教に励まれていましたが、その労がたたったのか・・・。建保5年(1217)、青森・浪岡の地において遂に往生の素懐を遂げられるのであります。御年63歳でありました。

 ただ法然上人の御教えをお伝えせねばと、そのご生涯を捧げられた金光上人。それに対し私自身の阿弥陀様への想い、お念佛への想いは如何なものか?住むところも、食べるものも、法を説く相手もいるのに、しっかりとお伝え出来ているか?私達の責務は、お念佛の御教えをより多くの人々にお伝えすること。法然上人の御教えというタスキを間違いなく・正しく・責任を持って次のランナー(世代)に繋ぐこと。
 折しもこの日は、大学女子駅伝大会において、佛教大学チームが二連覇を果たした日。金光上人のお姿や選手達が懸命にタスキを繋ぐ姿から、私達があるべき姿を学ばせてもらいました。

南無阿弥陀佛

2010年12月01日
宮城教区浄土宗青年会 慈恩寺 樋口法生