冬支度はおすみですか?
いよいよ寒くなって参りました。皆さんは、冬支度は万全でしょうか?私の寺は福井県西端にあり、幸いにそれほど雪は積もりません。しかし、同じ県内でも深い雪に埋もれる地域があります。そこでは十一月も半ばを過ぎると、家には雪囲いができます。同時に、除雪道具の点検や食糧の貯蔵等々、来るべき冬に備え、着々と準備が進んでいきます。
慌てなくても雪が降ってからでも間に合うのでは、と尋ねたところ、「いつ雪がどっさり降るかわからない。そうなったら二進(にっち)も三進(さっち)もいかないよ。いつ雪が降ってもいいようにしておかないとね」とのこと。冬は必ずやって来るもの、準備するのは当たり前、になっているそうです。また、その様な準備をして厳しい冬をやり過ごし、春に雪囲いを外せる日が来ることが、本当に嬉しく、ありがたく感じるのだそうです。
季節は、順番に巡ってきます。更に、天気予報もかなり正確になってきた昨今、どこに住んでいても、冬に備えてそれなりの準備や対策が可能です。
しかし、私達の人生においては、順番や予報があるわけではありません。まだ若いから、まだ先のこと、と思い込んでいても、「死」に順番はありません。今は順調であっても、いかに医療技術が進歩しても、「死」というものはなくなりません。
20年前、友人が事故で突然亡くなりました。先日も、別の友人が脳溢血で突然亡くなりました。ともに同級生(現在38歳)です。二人のご両親は、「どうして息子が先に死ぬのか」と悲しみに暮れていらっしゃいました。
「よかった。私は平穏で」と思ったあなた、本当にそうですか?誰の上にも、確実に、平等に、また、時として突然やって来るのが、とてつもなく不安で恐るべき「死」です。そして、「死」の後、来世では、現世をはるかに超える苦しみを、自分自身が味わうことになるのです。この世に生まれた以上、誰一人免れることは出来ません。
私達は、人生の冬、「死」に対しては、そのうちに、ではなく、只今から準備をしておくべきです。その時になってからでは遅いのです。私達にできる人生の冬支度は、確かな、正しい信仰を持つこと以外にありません。
浄土宗をお開きくださった法然上人は、「その身そのままで『南無阿弥陀佛』とお念佛を称えなさい。どんな人でも必ず阿弥陀様の御光りに照らされて、死を迎える時の恐れはすべて取り払われます。そして、阿弥陀様の西方極楽浄土へと救い摂っていただけるのです」とお訓(さと)しくださいました。お念佛は、『南無阿弥陀佛と我が名を呼ぶ者は一人残らず救おう。極楽に往生したいと願い念佛を称える者を、自らが迎えに行こう。再び苦しむことのないようにしよう』という、阿弥陀様のご誓願(ご本願)に順(よ)るものなのです。
事故で亡くなった友人のご両親は今、この世での深い悲しみを抱えながらも、毎日お念佛をお称えされています。「息子が苦しんでいませんように。阿弥陀様にお護りいただけますように。自分もいつか極楽に参らせていただけますように」と。先立った我が子も、自分も、共に極楽往生し、再び出会えることを願い、人生の冬支度をされています。
私達の来世が、苦しいものになるか穏やかなものになるか、それは、阿弥陀様のお救いを信じ、「南無阿弥陀佛」とお念佛をお称えするかどうか、この一点にかかっています。佛様(阿弥陀様)御自らが誓い願われたことを信じ、それに随(したが)うことほど、確かで正しい信仰はありません。最高最善の、人生の冬支度です。
阿弥陀様を信じてお念佛をお称えすることで、「死」という冬を乗り越えて、私達の来世は、温かく、明るく、安らかな極楽浄土へと、つながっていくのです。
南無阿弥陀佛
2010年11月16日
福井教区浄土宗青年会 誓願寺 佐野香栄