極楽浄土の再会
『露の身は ここかしこにて 消えぬとも 心は同じ 花のうてなぞ』
この御歌は法然上人が、極楽浄土での再会を詠まれた御歌です。
「おくれ先立つは世の習いです。草葉の露のようなはかない私たちの命。ここで消えるかどこで消えるかわかりませが、共に極楽浄土の蓮の台でお会いしようという思いにかわりはありません」
法然上人は、この世の別れがすべてではない、お念佛を申す者は必ずまた極楽浄土で再会をすることができます とお示し下さっています。
極楽浄土での再会はかくのごとくであろうなという体験をさせて頂いたことがあります。平成20年の知恩院さまでの1週間の行である、璽書道場でのことです。1週間だからあっという間であろうと考えていましたが、やはり行であるので、なかなか厳しいところもありました。6日間の前行を終え今日が最終日。御門主さまより伝法を授かるという日。いつものごとく知恩院さまの大方丈で璽書道場の入行者・総勢80名が集まっておりました。皆ともに寝起きし一週間の行を共にした仲間です。なによりお念佛を申す事を共に喜ぶ総勢80名の仲間です。
「これより阿弥陀堂に移る。一人ずつ名前呼ばれたものから順番に、今いる大方丈から阿弥陀堂にお念佛申しながら、移る」
とのことでした。
それまでのしばらくの時間、この行の入行者総勢80名でお念佛を15分ほど申しておりました。80名の念佛の声、その声の迫力や力強さはたいしたものです。そんな中、係りの先生が一人ずつ名前を呼び上げました。私は後ろから数えて十番目あたりで名前を呼ばれることになっていました。総勢80名の念佛の声が1人減り2人減り、10人減り、20人減り、だんだん念佛の声が弱まってきます。また親しい仲間が名を呼ばれたときは、〝先に行ってくるね〟という目線を私に向けて来ます。私が名前を呼ばれるころには、私の心には寂しさがありました。お念佛を共に喜ぶ仲間が減っていくわけです。始めは総勢80名が一緒にお念佛を申していたのが、私が名前を呼ばれるころにはわずか10名ほどの念佛の声と変っていました。
そして私の名前を呼ばれましたので、私も阿弥陀堂に向かいます。南無阿弥陀佛と申し、お念佛行道しながらしばらく足を運んでいきますと、阿弥陀堂へと着きました。阿弥陀堂へ入堂しますと、先ほど共にお念佛を申していて、先に名を呼ばれ、先に阿弥陀堂に着いていた仲間が、後から来る私をお念佛の声する中、迎えてくれたように感じました。そして正面を向けば阿弥陀さまが私を迎え入れて下さったように感じました。極楽浄土での再会はかくのごとくであろうなと思いました。
お念佛申す者も死の縁に名前を呼ばれたならば、この世と別れていかなければなりません。自分の名前が呼ばれるのが、いつなのかわかりません。しかしはっきりとわかっていることは、私たちお念佛申す者の往き先は同じ阿弥陀さまの極楽浄土です。お念佛申す私たちを阿弥陀さまは極楽浄土へ往生させて下さいます。
南無阿弥陀佛
2010年09月15日
兵庫教区浄土宗青年会 観音寺 池上善哉