あなたはどんなお念佛をお称えしてますか?

 今思えば、私が以前称えていたお念佛は間違っていた。

頼りない昔の記憶を辿ると、常にお念佛を称えていた祖母の姿が浮かぶ。食事してても、テレビ見てても、冷えた私のおなかをさすってくれている時もナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・と称えていた姿を。

 私はそんな祖母が大好きでいつも後を追いかけていた。何時のころからか、私は毎晩寝るときに手を合わせて10遍のお念佛を称えるようになった。
その時の思いは

『阿弥陀様、大好きなおばあちゃん、それから(身近な人たち)誰も死なないようにお願いします』

であった。

 しかし、私が中学生のとき、ある朝、祖母は目を覚まさなかった。
また立て続けて、憎まれ口を叩きつつも尊敬していた先生が、同僚の先生に命を奪われてしまった。

『あんなに阿弥陀様にお願いしてたのに、どうして助けてくれないの・・・』

 命ある限り、生きとし生けるものは必ず死ぬこと、常に同じ状態ではないことを実感した。例え立派な先生であろうと、人間である限り、思春期の自分たちと同じような、内側にいつ爆発するか分からない感情が潜んでいることも実感した。

 その後も普段はしないくせに、自分の都合よく物事が運んでほしい、ここぞという時にだけ、思いだしたように手をあわせて阿弥陀様に願成就をお願いしていた。阿弥陀様は、自分の浅はかな欲望をかなえてくれるための佛様ではないとうすうすは感じながら。
願いがかない、自分の思い通りにいけば、「阿弥陀様のおかげで」と喜んだ。しかし、たとえ欲望が満たされても、充足感も一瞬で消え去り、更なる欲望がわき出てくる、願いが叶わなければ、「あんなに阿弥陀様にお願いしたのに」と繰り返す日々。

 やがて、会社勤めを辞めて、尊いご縁をいただき、お念佛のみ教えに触れる機会に恵まれた。

『阿弥陀様は 我々のこの世での浅ましい欲望を叶えるちっぽけな佛様ではない。煩悩あるがために、生まれてから死ぬまで苦しみ続ける我々、そして死んでもまた苦しみの世界で輪廻しつづけなければならない我々をお救いくださる佛様である。』

そう受け止めることができると、愚かな自分に気づき、阿弥陀様への思いも変わり、お念佛も変わった。

 自分が生きるために どれだけの命を奪ってきたであろう。
自分には無いものを持っている周りの人をどれだけうらやんだであろう。
自分が満たされなくて怒り、どれだけ親、周囲の人と対立してきたであろう。
学校でも、職場でも、自分の評価を上げるために、どれだけ人の悪口を言い、二枚舌を使ってきたであろう。
どれだけ自分にとって都合が悪い恋敵、職場の後輩に対して、『この人いなくなればいいのに』と思ったことであろう。

 煩悩の数だけある罪を数えればきりがない。これから先も苦しみ、そして罪を重ねていく。今までは縁に触れなかっただけで、この先、煩悩が爆発して、社会的に犯罪者の烙印を押されない保証はない。そして最大の苦しみを迎え、この命が尽きる。今何もしなければ、さらに来世もその後も同じか今以上の苦しみを繰り返し味わなければいけない。

 もうたくさんだ。そう考えると自然と『助けてください 阿弥陀様』とお念佛が声になる。

 煩悩は振りはらえることはできない。欲望が消えることはない。できるだけ罪を犯さないようにこの世は耐え忍び、来世は苦しみのない西方極楽浄土に往生したい。その為のお念佛を続けていこう。

南無阿弥陀佛

2010年09月01日
兵庫教区浄土宗青年会 東光寺 平井隆祐