しずお

 先日、我が家の愛犬が亡くなった。犬種はシーズー。
 今から4年前の平成18年6月、神戸の阪急春日野道駅という駅前の交差点で、私と出会った。出会ったというより、拾ったと言った方がいいのかもしれない、俗に言う捨て犬だった。

 性格は、少し頑固ではあったが、とても人懐っこくてお利口さん、私の言う事もよく聞き、近所の川沿いにある公園で他の犬と遊ぶのが大好きだった。ちなみに、名前は「しずお」という。シーズー犬の雄だから「しずお」である。もちろん年齢は、わからない。

 しずおと出会った時には、飼い主さんがすぐに見つかるだろうと思っていたので、とりあえず、「しずお」と呼んでいたのだが、結局飼い主さんが見つからなかったので、その後も「しずお」と呼び続けた結果、昭和の日本男児の様な名前になってしまった。

 当時、まさかこんなに可愛い犬を捨てる人がいるわけが無いだろう。2~3日もすれば、いやどんなに遅くても1週間もすれば、飼い主さんが必ず現れるだろうと思っていたのだが、その後、飼い主さんが現れる事はなく、それから4年の月日が流れ、今年の6月21日、しずおは亡くなった。

 推定年齢14~15歳、しずおが亡くなった時には、悲しみと後悔が、まるで波のように押し寄せてきた。

 「しずおは、俺に拾われて幸せやったんかな。もっと可愛がってあげたら良かったな。ゴメンな、ほったらかしにしてしまって。もっとたくさん遊びたかったよな。もっと色んな所に行きたかったよな。」と、泣いても、泣いても、いくら後悔しても、もうどうしようも無かった。涙がいつまでも止まらなかった。

 手を合わせ、阿弥陀様にお願いする事しか出来無かった。

 「どうか、阿弥陀様…しずおを極楽浄土へ救ってやって下さい。」
 「なむあみだぶつ・・・なむあみだぶつ・・・」と。

 必ず極楽浄土でまた逢おうな!極楽に行ったら誰かに捨てられて悲しい思いをするような事は絶対に無いからな!先に行って待っててな!と亡骸に声を掛け再会の約束をして、家族みんなで、お念佛をお唱えして、大好物だったおやつ、境内に咲いていたアジサイの花とお線香をお供えして、お寺の境内に埋めてやった。


 いま日本では空前のペットブームが起きている。夕方、近所の公園に行けばたくさんの犬が、飼い主さんと楽しそうに散歩をしている姿を見かける。お檀家さんのお宅にお参りに行けば、たくさんの犬や猫達が、私を迎えてくれる。
 また、ペットだけに限らず、盲導犬や聴導犬、救助犬やドッグセラピーなど様々な場面で、私達人間を助け、癒しを与えてくれる。

 そして、愛するペットを失う事によって、ペットロス症候群という、うつ病や摂食障害、睡眠障害といった精神的な病にかかってしまう方々がいるほど、ペットは、私達の生活と深く関わっている。

 しかし、その影で、日本では年間30万頭以上もの犬や猫が保健所などで殺処分されているという現実がある。
 同じ人間によって何らかの理由によって捨てられ、処分という名の元に、この世を去っていくたくさんの”いのち”がある。
 人間とは、いかに自分勝手で、わがままな存在なのかという事実を痛感する現実である。

 こういった現実を知った時、恐らくほとんどの人が、「私は絶対に可愛いペットを捨てたりなんかしない」、「なんて残酷な事をする人が世の中にはいるんだ」、「同じ人間のする事じゃない」「私は絶対にいのちを粗末にしたりしない」と思うだろう。

 私も、そう思うのだが、そう思う一方で、寺の境内にしずおを埋める穴を掘っていた時、自分が取った行動に唖然とする出来事があった。

 穴を掘っていると、蚊の大群が私を襲ってきたのである。その後の展開は言うまでも無いが、私は穴を掘る手を止めて、そこにいる蚊の大群に向け、殺虫剤を撒いたのである、何のためらいも無く、たくさんの蚊を殺していたのである。

 4年前に捨て犬を拾い、もしかすると保健所で殺処分されていたかもしれない可哀想な1匹の犬の”いのち”を私は救った、「しずおを捨てた人間が信じられない」、「いのちを粗末にする人間が絶対に許せない」、そんな怒りにも似た感情を持っているにも関わらず、自分の目の前にある、たくさんの”いのち”を、何のためらいも無く殺していたのである。

 確かに、現実的に私達は、様々な生き物を殺さなければ生きていけない。蚊に噛まれたくなければ、殺虫剤や蚊取り線香を使って、蚊を殺さなければならない。健康に暮らして行くためには、牛、豚、魚などの様々ないのちを頂かなければ生きていけない。だからといって、むやみやたらにいのちを粗末にしていいのだろうか。

答えは「NO」である。

 蚊は、邪魔だから殺す、牛、豚、魚は美味しいから食べる。確かにそうではあるが、そこには、私達と同じ”いのち”がある。

 蚊のいのちも、犬のいのちも、あなたのいのちも、私のいのちも、全てのいのちは平等だ。

 そういった事を、たとえ頭の中では理解出来たとしても、私達はそれを忘れてしまう。普段、それを考える事も無く「蚊は殺してもいいのだ」と、自分勝手な都合で物事を判断し、更に言えば、蚊を殺したという罪悪感すら持てないのである。

 「私の都合に合わないから、私の欲を満たす為に・・・」と、私達は常に行動しているのである。


 先日、大阪で幼い姉弟がマンションに放置され死亡するという事件があった。あの母親は、なぜ、あのような行動を取ってしまったのだろうか。
それは、幼い2人の子供が「私の都合に合わなかったから」という事だろう。

 あの事件をニュースで知り、「私は、絶対にあんな事をしない。」「なんて残酷な事をするんだ。」「同じ人間のする事じゃない。」誰もが、そう思ったに違いない。もちろん、あの母親の取った行動は、絶対に許されるものではない。

 しかし、ここで皆さんに考えて頂きたい事は、もしもあなたが、あの母親と全く同じ境遇で生まれ育ち、全く同じ人生を歩んだとしたら、どうなっただろうか?という事だ。

 私達は、環境や生活の変化、自分の置かれた立場や状況が変われば、それが駄目な事だと頭では理解出来ていても、蚊を殺すかの如く過ちを犯してしまうのではないだろうか。

 人は皆、何かきっかけさえあれば、あの母親のように狂ってしまうのだと私は思う。

 だけれども、私達はそんな自分に気づく事が出来る。人のいのちも、他の生き物のいのちも大切に思いやる事が出来るのである。その心を、もっともっと大切にして、しっかりと自分の行いを反省して、生きて行かねばならないのではないだろうか。

 この世の全てのいのちには、いつか必ず終わりがやってくる。その時が来た時には、私のいのちも、あなたのいのちも、様々ないのちも共に、阿弥陀様の極楽浄土という迷い苦しみの無い清らかな世界へ往き生まれさせて頂く為に、まず私達が、日々の生活の中で、自分の行いを反省し、さまざまないのちを大切に思いながら、「お願い致します、どうか阿弥陀様、極楽浄土へ救って下さい」、「南無阿弥陀佛」とお念佛をお称えして、生きて行かねばならないのだと私は思う。

 「しずお」をという1匹の犬との出会い通し、人間というものは、私という人間の奥底には、とんでもなく恐ろしい心が存在するのだと感じた経験だった。

 そんな私達を、次の世で極楽浄土へと救って下さる仏様が、『阿弥陀佛』である。

南無阿弥陀佛

2010年08月15日
兵庫教区浄土宗青年会 東極楽寺 小林善道