法然上人のご生涯とみ教え ②

苦悩の日々

 法然上人が比叡山に登られたのは15歳の時、久安3年(1147)春の時でした。その手には「進上、大聖文殊像一体」と記した紹介状を携えていました。智慧を司る文殊菩薩に譬えられるほど、 資質と才能に溢れていたのです。

 真摯に佛教を学び、行に精進された結果、乾いたスポンジが水を吸うように学問を修得し、周囲からは「ゆくゆくは座主(天台宗の最高の地位)に」と言われる程に頭角を現したのです。

 しかし当時の比叡山は、武装した僧侶が合戦闘争を繰り返したり、名誉栄達だけを求め、悟りを求める心がない僧侶が存在したりしました。苦悩の世界を乗り越えるため佛法を習得しようと比叡山に 身を投じたのに、名誉や利益を求める僧の姿からは、その姿勢を見出すことはできません。法然上人は別れた父母を思えば思うほど、胸を痛めるばかりでした。

 そして久安6年(1150)、18歳の時に、比叡山の中でもさらに山奥にある、黒谷青龍寺の慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)上人の元に行き、名誉栄達の争いの世界から、純粋に修行できる環 境に身を置いて、ひたすら求道することに専念されたのでした。

 保元元年(1156)、法然上人は24歳となり、師匠の許しを得て、京都嵯峨の清涼寺釈迦堂に向かわれました。清涼寺のお釈迦様は生身のお釈迦様のお姿を写したと言われ、インド、中国、日本 へと伝わってきたのでした。そのため「このみ佛は、生きておられる」と世間の人々から信仰を集めていました。法然上人は人々たちにまじって、お釈迦様の御前で、時を隔てて、直接佛教のみ教えに 触れる思いで7日間参籠されたのです。この時法然上人は、人々の様子をみて衝撃を受けられます。当時は度重なる戦乱、相次ぐ天災飢饉により、その人々は疲弊し、今日をも知れない命を生きていた のです。佛教に触れることもできず、深い悲しみに沈む人々の苦悩を目の当たりにされた法然上人は、9歳の時に目前で息絶えた父時国公を、また比叡山に登るため、生き別れた母秦氏のお姿を重ね合 わせたことでしょう。

 法然上人は、苦悩に翻弄される人々の姿をご覧になって、私も、父母も、目の前にいる人々も、皆共々に救われる道が必ず佛教にあるはずだ、と決意を新たにされました。

 清涼寺を後にした法然上人は奈良へ向かい、高名な学僧に教えを乞われる旅路に出られます。しかし求める答えは得られず、失意のうちに再び黒谷へ戻られました。そして青龍寺にある報恩蔵(お釈 迦様が説かれたお経が納められた、今日の図書館のようなもの)に籠もられ、すべての人が救われる道を探し求める日々が続きます。