西方極楽浄土

本願のお念佛

「悪いことをしたら地獄に落ちるよ」

 幼い頃に大人からこんな言葉を聞かれた方はどれくらいいらっしゃるでしょうか?
科学全盛の昨今、「地獄がある」「極楽がある」と聞いても信じられない、と思う方がほとんどでしょう。
 しかし「科学」と「佛教」は相反するものではありません。科学の発展によってもたらされる恩恵を、数多く受けることができるとはいえ、あくまでもこの世限りのものです。対して「佛教」は過去、現在、未来に通じる、普遍のみ教えなのです。
 人として生まれた私たちですが、それよりはるかに昔から、形を変えて生まれ死にを繰り返し続けてきたのです。記憶にはありませんが、苦しみ迷いが尽きることのない、六道という世界を輪廻(りんね)してきたお互いです。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つを指し、輪廻とはあたかも車輪がグルグルと回り続けるかのように、生まれては死を迎え、また生まれ死んでいくことを繰り返し続けることです。

 阿弥陀佛は、はるかな昔、法蔵という名の菩薩様でした。その時にすべての人を必ず救うという四十八の願をお立てになります。「もし私が佛になったならば、このようにいたします」という誓いを四十八通りお立てになられたのです。これを「本願」と言います。その本願に基づいて阿弥陀佛は、はるか西の方に極楽浄土を構えられ、私たちを救う佛となられたのです。
 四十八ある本願の中で一番重要なのが、第十八番目の「念佛往生の願」です。本願中の王ということで「王本願」とも言います。これは、「心の底から極楽浄土に生まれたい、と願い、南無阿弥陀佛とお念佛を称えた者を、一人も漏らさずみな極楽浄土へ往生させる。もしそれができなければ私は佛になりません」というものです。

 阿弥陀佛は、私たちが輪廻し続け、苦の連鎖を断ち切れないことを哀れ悲しまれて、本願を立てられたのです。目に見えず、耳に聞こえずとも、常に阿弥陀佛は、極楽浄土から私たちを見つめ、「我が名を呼べ」と願われています。そして私たちが「南無阿弥陀佛」とお念佛を称える声を、一声も聞き洩らすことなく受け止めて下さっているのです。
 「南無阿弥陀佛」は「南無」と「阿弥陀佛」に意味的に分けられます。南無とは「助け給え」の意で、すなわち「助け給え阿弥陀佛」との思いを込めて南無阿弥陀佛とお称えするのがお念佛です。
 お念佛はいつでも、どこでも、だれもが称えることができる「修行」なのです。苦しみ迷いの娑婆世界で生きる私たちが修められるように、阿弥陀佛がお計らい下さったのです。

 今、ここで、私が称える「南無阿弥陀佛」の声する所に、阿弥陀佛は必ず寄り添って下さいます。
 そしていつかこの世での命が尽きる時には、一人一人のために阿弥陀佛御自らが迎えに来られて、極楽浄土への往生を叶えて下さるのです。